2020年11月29日 聖書:ルカによる福音書10章25節~37節「服部清志兄の信仰に学ぶ」 鶴尾計介兄

服部清志先生は同志社大学神学部を卒業され、宮田教会の伝道師として奉仕されていました。ぼくが教会に通い始めたのは高校2年生ですから、50年以上途切れることなくお付き合いさせていただきました。清志先生はぼくにとって無二の親友であり、兄のような存在であり、恩師でもありました。これまでいろいろなことを話し合い、また相談にものっていただきました。なかなか会えなかったのですが、月に1・2度電話をいただき、30分~1時間以上話すことも度々でした。
清志先生は服部団次郎先生と一緒に「炭鉱犠牲者 復権の塔」を建てたことは皆さんご存じですが、きょうは一緒に活動していて感じたことや、それ以外にも清志先生が心血を注いでやってこられたことを、皆さんにも知っていただきたいとおもいます。
「復権の塔」の理念は「連帯と尊厳」です。この筑豊で一万人を超える炭鉱犠牲者との連帯、失業者となり「自分たちはもう必要とされない人間なのだ」という喪失感に陥っている人たちとの連帯、捕虜や強制徴用によって連れてこられ、とりわけ危険な坑内で働かされて犠牲になった人たちとの連帯、差別に苦しんでいる人たちとの連帯、「ひめゆり塔」との連帯、そしてかつての炭鉱経営者との連帯です。ぼくは、これらの理念のかなりの部分は、清志先生から出たものではないかと思っています。一緒に活動していて「鶴尾君、これはすばらしい塔になるよ」「二人の娘さんをひめゆり部隊で亡くした金城和信が、禁じられていた遺骨収集を行い洞窟を回って多くの遺骨を足を使って集めた。それと同じことをぼくはこの筑豊のすべての失対現場を回って、一人一個名前を書いた石を足を使って一万個集めるよ」「台座の部分はかつての労働者の手で建てて、その上の坑夫像はかつての炭鉱経営者に建ててもらうことで、かつては断絶と抑圧があった経営者と労働者との連帯が、この塔によって実現するよ」というようなことをいつも熱っぽく語っていました。団次郎先生と話し合うなかで出てきた理念もあると思いますが、清志先生から出た理念もかなりあると思っています。塔は1982年に完成しましたが、経営者からは一社も募金に応じてもらえず、宮田教会と清志先生が土地を売り、残りは当時の宮田町に出していただきました。
清志先生は鞍手町に移り住んで、閉山炭住の子供たちの幼児教育に取り組みました。週2日の宮田幼稚園の移動保育園から始めて、公民館を借りて無認可保育園を開園し、その後土地建物を購入し、「友愛保育園」を開園しました。月謝は無料だったのです。教材や保母さんの給料などの維持費は、清志先生が宮田幼稚園のスクールバスの運転手や学習塾で得た収入をあてたそうです。小中学生を巻き込んで「子羊会」を組織し、卓球大会や盆踊りをおこなったりキャンプに行ったりしました。また母親会で料理講習会をしたり聖書の読書会をしたりしました。
1992年に炭住で火災がありました。清志先生は焼き出された人のために、募金運動をして支援されました。これをきっかけに、破れ長屋と言っても過言ではない荒れた炭住を改良住宅に建て替えようという声が上がりました。これまで2度町営住宅を建てようとしたがまとまらず、町も苦慮しているところでした。清志先生が会長に推されて94年に町営住宅建設準備会が立ちあがりましたが、それからが大変でした。同意しない人がかなりいたのです。先生は粘り強く説得して回り、時には一升瓶を下げて行き酒を酌み交わしながら信頼感を強めて、同意にこぎつけたこともあったそうです。町外や県外に引っ越して空き家になっている家も多く、先生は自腹を切って訪ねたりして、7年かかって全員の同意を得てようやく2001年に家屋調査が開始されました。その後も紆余曲折あって完成したのは2010年でした。清志先生は実に16年もの間これに取り組んでこられたのです。  
きょうの聖書は善いサマリア人の話です。律法には「神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。」とあり、イエスは「それを実行しなさい。」と教えています。(ルカ10章27-28)あるユダヤ人が追いはぎに襲われ半殺しにされて倒れているところに、通りかかった祭司もレビ人も道の反対側を見て見ぬふりをして通り過ぎたのに対し、サマリア人は手当てをしロバに乗せて宿屋に連れて行き、主人に銀貨を渡して介抱を頼んだのです。律法を教え導く立場の祭司も、祭司を補佐するレビ人も、律法を良く「知っている」けれども「実行」しなかったのです。当時サマリア人とユダヤ人はお互い忌み嫌う関係だったようです。しかしこのサマリア人は瀕死のユダヤ人を見たとき、もはや忌み嫌う相手ではなく、自分の「隣人」となったのです。
炭鉱犠牲者や失業者、炭住の子供たちや危険な炭住に住む人々が、清志先生にとって「隣人」だったのでしょう。先生は見て見ぬふりはできず、隣人を愛することを「実行」してきた人生だったと思います。讃美歌369番3節「たすけぬしにて 主はいませり なやめるものを 我もたすけん たすくるひとの あるところに たすけぬしなる 主もましまさん」を歌うとき、いつも清志先生や団次郎先生を思い浮かべます。ぼくにとって、そして皆さんにとって隣人とは誰でしょうか?
清志先生は40代になると、塗装業として生きる道へと歩み始めました。すると学生時代の友人が、教会を紹介するから牧師に戻るようにと説得に来たそうです。「鞍手の人たちが自分を地下足袋の履ける男にしてくれた」と言って、地下足袋を履いて肉体労働をすることに誇りをもっていました。
団次郎先生の長男として生まれ、父を心から愛し尊敬し師と仰ぎ、団次郎先生の信仰の理念を完全に影から支えて歩いてこられました。
ぼくは、団次郎先生、奥様の敏恵姉、清志先生というすばらしい信仰者とともに、歩ませていただき、とても恵まれたしあわせな教会生活でした。しかし自分を振り返ってみるとき、はたしてどれ程のことが出来ているのか心もとない限りです。以前も申し上げたと思いますが、神の国に召されて先生方と再会したとき、「ぼくも一生懸命生きてきました。」と報告できるよう、神様の助けをいただきながら、しっかり生きていきたいと思います。

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