2020年12月6日 聖書:ローマの信徒への手紙12章1~2節「この世に生きる」世良田静江牧師

日本では長い年月地域の中にある掟のようなものがあり、今でも守られるしきたりがあります。以前住んでいた地域では、隣組の中の方が亡くなると、告別式の後にお食事を喪家と組住民が昼食を摂ります。今は仕出し屋さんのお弁当でお味噌汁は隣組の女性たちが作るのです。殺生は駄目という事で、お豆腐に葱を散らし、お味噌を入れる。疲れているのだから美味しいお味噌汁をと思うのですが、殺生になるからかつお節やいりこは使わない。理由はもっともらしいのですが、よく考えればおかしな理由なのです。日本ではこんな道理が罷り通っているのです。パウロは神に自分を捧げなさいとすすめています。神によろこばれると付け加え、これが礼拝なのだと言うのです。1587年当時の言い方で、秀吉は長州征伐に行き、本陣を博多に構えました。イエズス会の年報はそのあり様を皇帝ネロになぞらえています。秀吉の夜の慰めに当時の薬院全宗が有馬領の中からキリシタンの若い美女を選び、秀吉に差し出しました。これが有馬の女といわれる話です。比叡山の僧が薬院全宗をしていたのです。ところが彼女はそれを拒否したのです。誰一人として秀吉に逆らう者などない。この有馬の女性は秀吉の言いなりならなかった。この屈辱に秀吉はキリスト教が一向宗に似て、一向宗より恐ろしきものと言われました。一向宗とはひたすら念仏することから浄土真宗につけられた名前でもあります。秀吉は怒り狂ってこの女の喉を切り裂けと命じました。今も日本人には大小様々な秀吉のような人がいます。パウロはあなたの体を神によろこばれる生きた聖なる供え物として捧げなさいと。これこそが礼拝にのぞむ私たちの姿であります。

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