2020年12月13日 聖書:マタイによる福音書5章17節「救い主が来られた」川本良明牧師

 今日はアドヴェント第3主日で、イエス・キリストの誕生を待つ時ですが、私たちはすでにこの方が二千年前に来られたことを知っています。そして教会は彼こそ救い主であると信じています。今日は、救い主とは何か、なぜイエスが救い主なのかを考えたいと思います。<わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである>というイエスの言葉から、3つのことを考えたいと思います。①わたしは来た。②律法や預言者を廃止するためではない。③律法や預言者を完成するためである。この3つです。
 まず<わたしは来た>とイエスは言われます。彼は、<私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。>など、「私は~のために来たのである」とたびたび繰り返しています。彼はそれまでどこにいて、どこから来たのでしょうか。彼に出会って、病を癒やされ、愛の言葉と権威ある教えを語る彼に圧倒された人々は幸いでした。ところが彼を見てまず「どこの出身か」ということに関心を持った人たちはつまずきました。
 彼はガリラヤのナザレ村で育ちました。公の活動を始めた彼の風貌や身なりは、30才の貧しい石切大工そのままの姿でした。その彼が病を癒やし、多くの奇跡を行ない、愛と自由で、神の言葉を生きた言葉として語り、民衆の絶大な支持を得ているのを見て妬んだ指導者たちや熱い眼差しを注いだ活動家たちはつまずきました。とくに故郷の会堂で語ったとき、「この知恵と奇跡の力をどこから得たのか。この人は大工で、マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、我々と一緒に住んでいるではないか。」と見た人々はつまずきました。<わたしにつまずかない人は幸いである>と言われたイエスの言葉は、当時の人たちにも、弟子たちにも、そして私たちにも語られている言葉です。
 最近ドローンというのをよく見かけます。カメラを搭載して、これまで地上からしか見えなかったのが、上空から写したのを見ると、視点がガラッと変わります。
 イエスは、最後の食事の席で弟子たちに、今まで秘めていたことを初めて明かすように、<わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く>と言われました(ヨハネ16:28)。ほかでもない。イエスは、父なる神のもとから来たということです。すなわちイエスは、天地創造の前から神と共におられて、神が計画していたことのためにこの世に来られたのです。
 次に<律法や預言者を廃止するためではない>とイエスは言われます。「廃止する」とは、新しい家を建てるために古い家を打ち壊して更地にするといった強い言葉です。私たちはふつう、新しく前進し、新しいことを始めるために、これまでの古いことをやめたり、要らないものを捨てたりします。そしてそのためには、決心や勇気が要ります。またいろんな決断を迫られることがあります。
 ところが律法や預言者の言葉は、神が定め、神が語られた言葉です。だから人間が壊したり捨てることはできません。そこで、これを廃止するために人間はどうするのか。それはイスラエルの民を見ればよく分かります。モーセを通して律法を授かり、預言者の言葉を聞いた彼らは、これをゆがめ、まったく異なるものにして、その力を骨抜きにして、実質、廃止したのです。
 例えば十戒の中の第四戒は、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、七日目は、いかなる仕事もしてはならない。」というものです。これは安息日には奴隷も休むというすばらしい掟ですが、これを徹底的にゆがめて39か条の禁止条項と各条項を守る234もの行為の禁止を定めました。900㍍以上の移動や病気の治療は、仕事だから禁ずるという具合です。マルコ3章1~6節はその一場面を伝えています。安息日にイエスが会堂に入ると、彼が手の萎えた人をいやすかどうか注目する人々がいて、重苦しい雰囲気でした。イエスが手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言うと、彼は怖ず怖ずと出てきました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」とイエスが言っても彼らは黙ったままです。イエスは怒って人々を見回し、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われ、伸ばすと、手は元どおりになりました。この人は叫びました。「母ちゃん、見ろ、手が治った! 明日から働けるぞ!」家族も知人も皆喜び、会堂いっぱいに歓声が上がったと思います。ところが人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めたというのです。
 これに対してイエスは、<安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。>(2章27節)と言われました。「法律が人のためにあるのであって、人が法律のためにあるのではない。」イエスはじつに自由で、いかに人間的であるかが分かります。
 けれどもさらに重要なのは、28節の「私は安息日の主である」という言葉です。ルカ福音書24章44節以下ですが、復活したイエスは弟子たちに、<私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。>と言われました。そして彼らの心の目を開いて、あらためて聖書を悟らせた、とあります。
 死んだら時間は終わりです。しかしイエスは死んで復活しました。つまりイエスは、現在はもちろん過去も未来も永遠の時間に生きておられます。ですからイスラエルの歴史の中で、あるときは十戒を授け、あるときは預言者たちに語りました。そのイエスが今、<律法や預言者を廃止するためではない>と言われているのです。私たちは今、その言葉を直接イエスから聞くことができることを喜びたいと思います。旧約聖書が大切なのは、イエスも当時の人たちと同じように読んでいたからだと言われます。確かにそうだと思います。しかし大切なのは、聖霊によって心の目が開かれ、今、ここで、聖書の言葉を聞かせていただくことです。
 次に<律法や預言者を完成する>とイエスは言われます。<私が来たのは、律法や預言者を完成するため>というこれこそクリスマスの出来事です。イエスが父なる神のもとから来たのは、天地創造の前から計画していたことを完成するためでした。家の建てるのにサッシの窓より先に外壁を完成すると笑われます。手順通りしなければ建物は完成しません。
 天地を創造した神は、救いを完成させるために、まず全人類の中からアブラハムという一人の人物を選びました。そしてその子孫からイスラエル民族を興し、律法を授け、王国を立てさせ、預言者を遣わして律法を守るように警告しました。しかし彼らは守らない。そこで彼らを裁くために亡国と捕囚の苦しみを与え、それでもなお神の言葉をゆがめる彼らの子孫の一人であるイエスとして誕生したのでした。
 ヨハネ福音書は、<言は肉となって、私たちの間に宿られた>と語って、神が人間になったことを「肉となった」と書いています。肉とは、弱く、はかない、律法を守らない罪に生きる私たちと同じ人間という意味です。ですから単に神が人間となったのではなく、律法のもとに生きて、これが神の御心であると信じて、肉である私たち人間に代わって、神に裁かれるために十字架に死なれたのです。
 世界のどの民族も似たような戒律を持っていますが、ユダヤ人に授けられた律法のような内容を持った戒律はありません。あるとき律法の専門家が、律法の中でどれが一番重要ですかと訊ねたとき、イエスは、「とことんあなたの神である主を愛しなさい。また自分のように隣人を愛しなさい、このどちらも重要であって、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいています。」と答えました。
 神がユダヤ人に律法を授けたのは、特別な意味がありました。それは彼らが全人類を代表して、人間がいかに罪深いかを示すためでした。事実、彼らはそのことを実現しました。すなわち神の御子を殺したのです。これほど大きな罪はありません。彼らは私たちを代表して、神の子を殺すという最大の罪を犯したのです。
 しかし神は、御子を殺させることによって私たちの肉を滅ぼし、私たちを無罪とし、草花のようにはかない、土の塵にすぎない私たちを、神の子とし、永遠の命を与え、神の国の住民としてくださいました。これが私たちの救いです。それが天地創造の前から計画していたことです。十字架の死をもってイエスは、<私が来たのは、律法と預言者を完成するためである>と言われ、神は、このことが完全に成し遂げられたことを世界に宣言するためにイエスを墓から甦えらせたのです。
 そしてイエスは、<あなたがたも完全な者となりなさい>と言われています。キリストは、死をもって律法と預言者を完成し、私たちの救いを成し遂げられました。だからこの方は救い主なのでしょうか。その通り、私たちの救い主です。
 しかしそれだけではありません。イエスは、<私は律法と預言者を完成するために来たのである。>と言われた後、<すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の一点一画も消え去ることはない>と言って、その1つ1つを語った最後に、<だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい>と言われています(5:48)。じつはこれは、<あなたがたも完全であるだろう>という未来形です。イエスは約束しているのです。
 神のもとから来て、私たちの救いのために苦難の人生を歩み、最後は十字架の死を遂げられました。それは天地創造の前から神が計画していたことでした。しかし神の行動は、神御自身の内部で終始していません。<あなたがたも完全であるだろう>と言って、私たちの行動が神の行動と一致することをめざしています。つまり律法と預言者の完成者イエス・キリストを信じるならば、十戒や山上の説教や使徒の教えや預言者の言葉など、すべての律法が私たちの内に満たされるというのです。
 イエスが、<私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。私のために命を失う者は、それを救うのである>と言われた言葉も律法の1つです。笑い話ですが、ある牧師に一人の青年が、「先生、喜んで下さい。自分を殺すことができました。」と言うと、それを聞いた牧師は仰天して、「それはたいへんだ! 自分を殺したもっと強い自分がいる!」と叫びました。
 人は自分で自分を殺すことなどできません。キリストに従うとは、キリストが死に至るまで神に従順に生きて、完全な人間となってくださった。それが、私のためであり、こんな自分のために死んでくださったと悔い改めて、完全な人間にしてくださることを信じて、感謝し、祈り、願うことです。死をもって、神の御子キリストは私たちの罪を贖い、人間イエスは律法を完成して、私たちが完全な人間になる約束をしてくださいました。だからキリスト・イエスは私たちの救い主なのです。
 キリストを信じるとき、キリストはその約束を実現されます。信じるとは、イエスの信仰をまねることではありません。イエスを信じ、受け入れることです。そのとき、私たちはもはや罪は問われません。そして神の律法を心に刻み込んで、<天の父が完全であられるように、あなたがたも完全であるだろう>という約束を実現してくださいます。このことを信じ、喜び、感謝したいと思います。

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