2020年12月20日 ルカによる福音書2章1~7節「コペルニクス的逆転」川本良明牧師

●昔、金光教の信者さんが真顔で、「えっ、教会でもクリスマスをするんですか」と言ったので、こっちがびっくりしたことがあります。マスとは祭りのことで、キリストの誕生を祝うクリスマスがそれほどに定着しているとも言えます。イルミネーションで飾ったり、ケーキやプレゼントやサンタクロースなどを見ると、商売とは別に、何かしら楽しいことを期待させることはたしかです。
 しかしクリスマスの根拠は聖書にあります。キリストの生涯を書いたマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書のうち、キリストの誕生物語はマタイとルカ福音書に書かれています。内容はまったくちがいますが、3つの点が共通しています。1つは、男の介入なしに神だけが行なった業であること、1つは、神がイエスという名を与えたこと、1つは、ベツレヘムで生まれたということです。
●まず<神の働きだけで>ということですが、マタイ福音書では、<マリアはヨセフと婚約していたが、一緒になる前に、身ごもっていることが分かった>とあり、それでヨセフは「マリアは他の男と何かあったのではないか。しかし彼女を見たらとてもそんなことは感じられない」と苦しんでいると、天使が夢に現れて、<マリアは聖霊によって子を宿し、男の子を産む。その子の名をイエスと名づけなさい>と告げられます。ルカ福音書では、天使がマリアに現れて、<マリア、おめでとう。あなたは男の子を産むが、その子の名をイエスと名づけなさい>と告げられます。マリアが、<私は男の人を知りません。どうしてそんなことがありえましょうか>と言うと、<聖霊があなたに降り、神の力があなたを包む。>と言われています。ですから神すなわち聖霊の働きだけであって、ヨセフは関係ないのです。
 つぎに<ベツレヘムで誕生した>ということですが、ルカ福音書では、両親が住民登録をする事情が生じて、ヨセフがダビデ王の血筋であるため、身重のマリアを連れて百㎞以上もの旅をして、ダビデの町ベツレヘムに到着すると間もなく出産したので、ベツレヘムで誕生したわけです。一方マタイ福音書では、預言者ミカが、キリストはベツレヘムで生まれると預言していることが実現したと述べています。
●このことから教えられることがあります。私たちは誰も自分の意志で生まれたと思っていません。人種や信条、民族、性別、家柄、肌の色、障害などを自分で決めたのではありません。だからその人の責任ではないことなのに差別をすること、それは許されないとして、憲法などで人権として認められています。それはそれとして大きな問題なのですが、私たちは、自分の誕生だけでなく死も、自死でない限り、いつ、どこで迎えるかは決まっていません。
 ところがキリストは、誕生のときも場所も、名前はもちろん十字架で死ぬ場所もエルサレムで、じつに明確です。先週、私たちは、とても大切なことを教えられました。それはイエスが最後の食事の席で、<わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。>と弟子たちに打ち明けるように言った言葉から、イエスは天地創造の神のもとから世に来られたお方であり、「世を救う」という神の明確な意志をもって来られた救い主であることを知ったことです。
 後にイエスは公の活動を始めたとき、人々に、<はっきり言っておく。私が天から降ってきたのは、自分の意志を行なうためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行なうためです。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからです。>と言われています(ヨハネ 6:38、40)。このようにイエスは、明確な意志を持って、神の御心を行なうことを使命としてこの世界に来られたのです。しかしその使命を成し遂げるために、イエスはどんな人生を歩んだのか、あらためて思うわけです。
●誕生物語は、イエスの生涯をふり返って作られたものです。ですから物語は、イエスがどんな生涯を送られたのかを、いろんな形で示していることが分かります。
 先ほどお読みした物語では、クリスマスの祝いからは程遠い「住民登録」という言葉が出てきます。それは基本台帳に住民の名前を載せて、課税や兵役の義務やローマ兵や役人の荷物運びなどに徴発する手段です。これによってユダヤ人たちは、これまで以上にローマ帝国とシリア総督のきびしい支配のもとに置かれました。もちろんイエス・キリストもそのようなところに置かれたことを意味しています。
 また「皇帝アウグストゥス(在位前31~後14)」という言葉です。これはローマ国家の支配の仕方ががらりと変わって、皇帝が支配する国家となったということです。ルカ福音書3章1節に出てくる皇帝ティベリウス(在位14~37)は第二代の皇帝で、イエス・キリストが公の活動をしているときの皇帝です。皇帝とは神のことです。以後も皇帝による支配は続いていきます。ですから「皇帝アウグストゥス」の名前が出てくるということは、皇帝礼拝を強制する時代の前触れを意味しています。
 今一つは、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という最後の言葉です。これはマリアが身重で長旅のため到着が遅かったためでしょうか。住民登録で各地から一族は集まっているし、ベツレヘムには親戚もいたかも知れません。それに当時の人たちは、もし一族のだれかが侮辱されたら一族あげて仕返しするほどに絆が強かったはずなのに、冷たく除け者にされているのは、「マリアの妊娠は、いいなずけのヨセフと関係がないようだ」という話が広がっていたからだと思うのです。このことは、キリストが自分の民のところへ来ても誰も受け入れられなかった、いやそれどころか、彼を苦しめ、やがて十字架につけて殺すことを意味しています。
 しかし、たとえ人々が宿屋を拒んでも、キリストは神の明確な意志によって来られるお方です。別の場所で生まれることを妨げることは出来ません。しかしその場所とは、後にもっとも残酷な場所で死なれたように、汚い家畜小屋のえさ箱の中でありました。このことは、神は単に人となったのではなく、「飼い葉桶の中に横たわる」ほどの人と成られたことを意味しています。それは、神が徹底的に私たちに仕えるお方となられて、私たちが彼を本当の仲間、隣人、友人、兄弟として出会うことができるために、ご自分を選ばれたということでした。
 キリストの誕生を予告する預言者イザヤの言葉があります。<見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする>(42:1~3)。叫ばず、呼ばわらず、傷ついた足を折ることなく、暗くなってゆく光を消すことがない、じつに私たちにとって、かけがえのないお方と思わずにはおれないことを預言しています。
●不吉な時代の予感や故郷で受けたつらい仕打ちの現実の中で、マリアとヨセフを支えたのは、結婚前に聞いた、<その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。その子は自分の民を罪から救う。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。>という主の言葉でした。そしてさらに二人に平安と喜びをもたらしたのは、羊飼いたちの突然の訪問でした。先ほどお読みした聖書の後に続く物語です。当時の社会では、羊飼いは漁師と同じように差別されていました。彼らは家畜小屋を覗き、飼い葉桶に赤ん坊が寝ているのを見て、おどろき、感動しました。というのは、天使が自分たちに告げたとおりだったからです。彼らは二人に語りました。「荒野で羊の番をしていると、突然、光が周りを照らし、『あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。』という声が聞こえるや、天空いっぱいに天使と大軍が現れて、<いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。>という大合唱が起こりました。」それを聞いて、マリアとヨセフは本当に大きな喜びと平安に満たされたと私は思います。
●聖書は、ローマ皇帝アウグストゥスやシリア州総督キリニウスの名前を書いています。また3章でも皇帝ティベリウスの治世第十五年とかポンティオ・ピラトがユダヤの総督などと書いていますが、聖書はそれ以上のことに関心をもっていません。
 それは、神が人間イエスとなって誕生し、ナザレで育ち、30年後に公の活動をして十字架につけられて最期を遂げ、その3日後に復活したことが、まぎれもなく歴史的な事実であることを語るためです。
 聖書の神は、観念でも思想でも無時間的な輪廻でもなくて、生身の人間イエスとなって私たちの歴史の中で誕生し、死んで、復活されたお方です。そして天に昇られて、聖霊として今も具体的かつ歴史的に活動されておられる神です。
 その活動の目標は、イエス・キリストが成し遂げた救いの業が完成することであります。成し遂げられたのですが、まだ完成しておらず、いまだ罪が力をふるっています。それが現実ですが、やがて終わりの日にそれがすべて完成する、それが天地創造の前から立てていた神の計画である、と聖書は語っているのです。
 家の建てるのに手順通りしなければ建物は完成しないように、神は救いを完成させる計画を着実に進めておられます。まず全人類の中からアブラハムを選び、その子孫からユダヤ民族を興し、律法を授け、律法を守らない彼らを裁き、それでも神の言葉をゆがめる彼らの代わりにイエスを誕生させ、十字架に殺させて、救いの業を成し遂げた後、イエスを復活させ、聖霊として降って教会を建て、私たちを選び、愛し、終わりの日の完成に向けて、今も働いておられるということです。
●この神の確実な計画とその歴史を見落としてはなりません。そして私たちは、神の歴史のもとで、私たちの世界の歴史を考え、また見ることが求められています。ドローンというのは、カメラを搭載して、上に飛ばして上空から見る道具です。視点が変わるので、地上から見ていたものがガラッと変わって見えます。
 イエスに出会い、その死と復活と聖霊の降臨を目撃した教会の人たちは、自分たちが神の歴史の力強い水脈の中で生きていることを自覚していました。だから皇帝の名前やポンティオ・ピラトや大祭司の名前を聖書の中で挙げていますが、それはイエスが彼らの同時代人であるのではなくて、むしろ彼らの方がイエスの同時代人なのです。私たちは聖書を読みながら、「あ、この時代にイエスは生まれたのだ」と思っていますが、そうではないのです。神の計画のもとに、イエスは明確にこの時を選び、この場所を選んで来られたのです。そのイエスと同時代人として、皇帝やピラトや大祭司がいるということです。この逆転が大切なのです。
 このことを教会及びキリスト者とこの世との関係を考えると、教会及び私たちは今の時代と同時代なのでしょうか。確かに私たちは、今のコロナのことや政治や経済のことなどと同時代です。けれども教会のかしらはキリストです。そして聖霊が私たちの内にあって導いておられると信じています。だったらこの世の方が教会及び私たちと同時代なのではないでしょうか。
 皆さんも逆転の経験がおありでしょうが、私の体験の1つを紹介します。小さな教会の牧師になった時、礼拝の間ずっと講壇の椅子に座ることになりました。すると礼拝出席者のことが気になるわけです。誘惑です。そこで会衆席の一番前に座り、講壇の壁にある十字架を見上げて説教の時を待つことにしました。逆転です。
 神を主語とし、私たち人間は述語となるという逆転は、私たちにとってひじょうに大切なことではないでしょうか。「聖なるかな」と歌い、「御名が崇められますように」つまり「御名が聖とされますように」と祈ります。神が主語であり、私たちは述語であるという関係を確立しなければなりません。
 「私の祈りのおかげであの人は教会に来るようになった」とか「彼がああなったのは私のおかげだ」と、自分中心にごう慢に考えるのではなくて、「あの人が来るようになったのは聖霊のおかげだ。私も聖霊さまのおかげで変えられたのだ」というように、自分中心から聖霊中心に逆転することは恵みです。
 「しもべ語ります、主よ聞きたまえ。」が私たちの祈りではないでしょうか。それも大切ですが、しかしあのサムエルのように、「しもべ聞きます、主よ語りたまえ。」と逆転することも恵みです。他にも数多くありますが、神の計画のもとに誕生したイエスを信じて、地上から天上に目を向け、天上から眺めることが許されるとき、自分の誕生も死も知ることはできませんが、しかし誕生前から自分が神の御手の中にあったことを知り、死もまた神の御手の中にあることをはっきりと知るのではないでしょうか。今日の御言葉を通して、イエスさまが私たちの救いのために、神の明確な計画のもとに来てくださったことを心から喜び感謝したいと思います。祈ります。

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