2021年1月24日 聖書:マルコによる福音書2章13節~17節 「こっち側とあっち側」大薮善次郎牧師

 マルセル・ブルーストが「聖書は一種の不思議な言葉で書かれている。その一語一語に各人が各種の意味をつける。そしてそれは誤読であることが多い。ところが立派な書物にあっては、人々のおかす全ての誤読が立派なのである。」と言った。
 私たちは聖書をどう読むかで迷うことが多い。しかし、注意して読むことが書かれている中で、イエスが誰と話しているかに気を集中していくことなのである。
 レビという人はイスラエル12部族の族長の中で祭司階級。宗教的公務を果たす者であり、神殿での奉仕、民の教育にも当たった。そして土地は持たず、他の民から十分の一の献品を受けて生活していた。その人が徴税人にまで堕落しているのである。イエスが彼に「従ってこい」と言われたらすぐに従ったことは当然のことであった。
 それだけれはない、彼は仲間を呼び、食事の会を開いた。それを見た律法学者は、食事を共にしていたイエスを非難したのである。
 放浪説教師イエスに従うということは、律法を遵守するファリサイ人にとって、許されざることなのであった。そこでは善悪の区別をはっきりさせ、自分が正しいと信じることを行っている者たちを「こっち側の人」といって差別したのである。
 「あっち側の人」とは罪人として批判すべきものであって、常にこの世から抹殺されなければならない。これは現代においても同じである。特にコロナにかかった人をあっち側にしてしまう。
 イエスがこの世に来られたのは、この人間の性(さが)をなくすためであった。私たちは自分のあるがままの姿でいいのである。パウロは「あなた方は主イエス・キリストを着なさい。」(ローマの信徒への手紙13章14節)と言う。私たちは
そのままの姿ですっぽりとキリストの着物で包んでもらえるのである。そして
少しずつ変えられていくのである。人生は一生かかって神を知るためにある。

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