2021年2月7日 聖書:ローマの信徒への手紙1章20節~31節「任されている自由」世良田静江牧師

家に居る時間が増えて、今まで外出していた事が不思議にさえ思います。これはコロナのせいではなく、昨年末、免許返納した結果だと思っています。百田尚樹氏の「百田尚樹の日本国憲法」を繰り返し読み、説得力のある説明だと読み終わりました。土井たか子さんがご活躍されていた時、この日本国憲法の草案に携われた唯一の若い女性であったベアティさんをお招きし、私たち福岡県翼の会でも講演をお聞きしました。その後「ベアティの贈物」として出版され、映画にもなったりしたかと思います。今後の世界の民主主義の法として不眠不休で創り上げたお話を聞き、感動しました。今日の説教は、人間世界に起こっている転倒、つまりひっくり返りが出てきています。創造者のかわりに被造物を拝み、男も女もその自然な関係を不自然にかえるという転倒です。偶像礼拝に性的混乱、どちらもひっくり返っていることに通じています。神を知りながら神としてあがめることも感謝もせず、心の欲望によって、人間とは一体何者かと問うているのです。パウロは鋭く、2千年前の乱れた世俗に対して厳しく当然の報いを受けると。この手紙を読む人たちに生きる在り方の根本を問うているのだと思います。「人が任せる」これをギリシャ語ではパラディドミという言葉があります。この言葉には「引き渡す」という意味もあります。任せられているから自由気ままにではなく、「引き渡される」何に引き渡されるのかが潜んでいるのです。「そこでは神は顔をそむけ、彼らが天の星を拝むままに任せられた」(使徒言行録7:42)この任せられることが、実は神の裁きの審判なのです。     
官邸をあげて応援されし女(ひと) 国会を去る今日は立春
権力と権威を誇っていた人がその座から退く。その姿はワイドショーの一部を占める程、話題に事欠きません。パウロは人間が自由を考え違いしている事にこのパラディドミを言おうとしているのです。申命記22章5節には、「女は男の着物を着てはならない」という律法があります。今日に至っては、これらの数々の問題があります。自由が人間を転倒させているのです。人間が自由において如何に生きるのかという課題の困難さを示しています。怒れる神の御手の中にある自分として悟ることによって現代人は神を知ることができるのではないでしょうか。

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