2021年2月14日 聖書: ローマ の信徒への手紙3章21~26節 「見よ! イエス・キリストを!」 川本良明牧師

●この手紙を書いたパウロは、自分がユダヤ人であることを強く自覚していました。ユダヤ民族の起源は、世界のどの民族ともまったくちがいます。一般に民族は、人類の進化の過程で説明されます。世界各地の環境に適応しつつ、血筋を絶やさないで夫婦・家族・氏族そして民族にまで発展したのが民族の起こりとされています。アブラハムと妻のサラもセム系民族の系譜の人でしたが、二人は子供がいないまま70才を過ぎていました。ところが彼が99才、妻が89才の時、神から来年の今ごろ男の子を授けると予告されたとき二人は笑いました。彼らは狂信家で迷信家でもなく、笑うのは当然でした。しかし約束どおりイサクが生まれました。そしてイサクが40才の時、リベカとの間にヤコブとエサウが生まれ、その子孫が増えていきました。ですからユダヤ民族は、他の民族とちがって、無から有を造り出す神の力によって存在しているし、今でもそうだということです。
●この民族に神が授けたのが、今お読みした個所でも出てきた律法です。十戒を基本とする掟であって、神のふさわしい民になるように神が授けたものです。ですから彼らは、子供の時から一生懸命に旧約聖書を読み、神に祈り、賛美し、律法を実践してきた民族です。パウロもユダヤ人の一人として人一倍努力してきた人でした。
 ところがその彼が今、<律法とは関係なく、イエス・キリストを信じることで救われるのであって、そこには何の差別もない>と言っているのです。パウロは人類をユダヤ民族と他の民族つまり異邦人の2種類でしか見ていませんでした。だから<そこには何の差別もない>というのは、ユダヤ人であろうとなかろうと関係なく、イエス・キリストを信じる者が救われるというのです。
 ユダヤ人は、律法を実践すれば神に救われると信じていました。パウロもそうでしたが、今、彼は、律法を実践しても救われない。イエス・キリストを信じる者が救われるというのです。
●パウロが強く自覚していたもう1つは、自分が異邦人にキリストを伝える使徒であるということでした。その出発点は、復活のイエスに出会ったときでした。熱心なユダヤ教徒だった彼は、教会を迫害しようとしてダマスコに行く途中、突然、天から光が照り、目が見えずにおろおろしていると、天から、<サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか>という声がありました。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと<私は、あなたが迫害しているイエスだ>という答えでした。根柢から打ちのめされた彼は、三日三晩、飲まず食わず、「十字架に殺されたイエスがなぜ復活しているのか。神はなぜ彼を復活させられたのか。いったい神は、あのイエスを通して何をなさったのか。なぜ神は彼を十字架に殺されるのを見殺しにしたのか。助けようと思えば助けられたはずだ」などといろいろと思い巡らしていました。
●そのときアナニヤという人が訪ねてきて、「自分はイエスから、『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。』と言われた」ということをパウロに語りました。これを聞いたパウロは、すぐさま教会の迫害者から使徒に変わりました。このとき彼が手にした生涯変わらない確信こそ今日お読みしたパウロの言葉なのです。
 <キリスト・イエスによる贖いの業を通して、無償で義とされる>ということ、あるいは<神はキリストの血によって、信じる者のために罪を償う供え物となさった>ということ、あるいはまた<今まで人が犯した罪を見逃してこられたのは、イエスを信じる者を義となさるためである>ということ、これらの言葉に彼の確信がはっきりと示されています。
●天地創造の神は、世の初めから人間の救いのために計画を立て、まずユダヤ民族を興し、彼らに律法を授けました。それは彼らを選び、愛するからこそ授けた掟でした。ところが彼らは、それを自分の力で守ろうとします、しかし守れない。ですから自分に都合のいいように律法をゆがめて、それを守ることで、神に正しくあろうとしました。それが罪なのです。そういう彼らの罪が渦巻いている中に、神はユダヤ人の一人としてこられました。そのお方が神の御子イエスでした。
 じつはこのことを考えると、神がユダヤ民族に律法を授けたのは、彼らが全人類を代表して、全人類に代わって、全人類に先がけて、人間がいかに罪深いかということを示すためだったことが分かります。事実、彼らは、なんと神の御子を十字架に殺すという、ものすごいことを実行したのです。
●ところが神は、御子自身を十字架に殺させる、つまり見殺しにすることによって、彼らの罪を裁かれたのです。パウロがここで、<神は、キリストの血によって信じる者のために罪を償う供え物となさって、その彼の贖いの業によって、イエスを信じる者は罪が赦される>と語っているのは、このことなのです。
 しかもユダヤ人は、キリストを殺すのに自分の手を汚さないで、キリストを異邦人に引き渡して、つまりローマ総督ピラトと兵士など異邦人の手で殺させました。こうしてユダヤ民族は、異邦人を自分たちと同じところに立たせたのです。ですからユダヤ人も異邦人も皆、差別なく、キリストの血に責任があると言えます。
 しかも神は、この御子を復活させられて、罪の贖いが完全に成し遂げられたことを宣言されました。ですからユダヤ人も異邦人も異邦人である私たちも皆、イエス・キリストを信じるならば救われるのです。
●しかしここに落とし穴があります。律法を行なうことでは救われないのは、信仰の行ないに対しても同じです。神に不従順な私たちは、自分が信じている信仰だけに頼るのは危険です。イエスを殺したユダヤ人たちも信仰においては熱心でした。ですから信仰は、自分の力で行なうのではなく、神からの贈物なのです。つまりイエスが信じた信仰が本当の信仰であって、それが私たちの信仰の根拠なのです。
 じつは3:22節は「イエス・キリストを信じることにより」と訳されています。しかし原文は「イエス・キリストの信仰により」です。「イエス・キリストを信じる」では「イエス・キリストに対する信仰」となりますが、「イエス・キリストの信仰」なのです。このちがいは大きく、その影響もたいへん大きいものがあります。
 ただしイエスは、私たちに一つの模範を与えているのではありません。彼は私たちが受ける刑罰を代わりに担うために信じたのです。だから信仰を真実と言い換えることもできます。神の子でありながら私たちと同じ被造物となって、神に対して、聖霊の実である愛、喜び、平安、親切、寛容、善意、忠実、誠意など人間としてのあり方を最後まで成し遂げて下さいました。つまりイエス・キリストは、完全な人間性を、私たちに代わって、十字架の死に至るまで生きられました。ですからヘブライ12:2には、<彼こそ信仰の創始者であり完成者です>と書かれています。
●イエス・キリストを信じるとは、神が私たちの罪に対する怒りと裁きを、このお方の十字架の死において実行されたことを受け入れ、それを認め、そのことに感謝し、一切を彼にゆだねるということです。イエス・キリストの真実によって、私たちの罪は贖われました。ですから今日、「見よ! イエス・キリストを!」と説教題に書きました。このイエス・キリストこそ私たちの過去、現在がどんな状況、どんな人間であろうと一切を問われないで、救いにあずかる者として下さるのです。そのために私たちの代わりに、あのむごい十字架の死を遂げて下さったのです。
●<このイエス・キリストを信じぜよ。そうすれば救われる>ですが、それでは、救われることが私たちにどんなことをもたらすのかを考えるとき、イタリアの映画「道」を思い出すのです。これは、主人公のジェルソミーナが、ある青年からやさしく語りかけられ、教えられて、強く、たくましく、自分の親方ザンパノを愛する者に変わっていく姿を見事に描いています。貧しい家庭のために、しがない旅芸人のザンパノに売られたジェルソミーナは、明るい子でしたが、ムチできびしく仕込まれ、また慰み者にされ、逃げたくても逃げられず、おびえながら毎日を過ごすようになりました。その彼女が綱渡りサーカスの青年に出会います。彼は彼女を囲っているザンパノをからかい、ジェルソミーナをやさしく見つめていました。そしてあるとき二人きりになったとき、彼は小さな石を手にして、「いいかいジェルソミーナ、こんな石ころも何かのご用のために神がお造りになってるんだよ」と言うと、彼女はにこにこしてそれを手にして眺めます。そして彼女は、その小さな石をいつも大事に持っていて、つらいことがあるとそれを眺めていました。そういう彼女が、やがてザンパノに、「あんたは私が必要なんよ」と言うのです。ザンパノは馬鹿にして相手にしませんが、もう彼女から明るさを奪うことが出来ません。あの青年の言葉をストレートに自分に当てはめて聞き取ったとき、その言葉が彼女の命の言葉になっていき、それまで逃げよう逃げようとしていたのに「あんたは私が必要なんよ」と言う、強く、たくましい女性に成長していったのです。
●「この世界は神に造られていて、どんなものにも意味があるのだ」という言葉は、人の生き方を根本から変えるもので、その言葉こそイエス・キリストの存在です。このお方に出会って、根本から生き方が変えられたのがパウロでした。「イエス・キリストを受け入れ、自分の一切をゆだねる、すなわちイエス・キリストを心から信じるのであれば、人は根本から変わります。なぜなら神は、私たちの中に聖霊として宿って下さって、私たちに根源的な力、人間として善く生きる力、義しく生きる力、人を愛し、謙遜になり、誠実、やさしさ、平安などあらゆる力を生み出して下さるのがイエス・キリストだからです」とパウロは言うのです。
 このパウロが語るのは、私たちに対する言葉でもあります。私たちもイエス・キリストを信じるならば、イエスの霊である聖霊にあずかり、愛が、忍耐が、希望が、その他すべての戒めそのものが、私たちの中に造り出されていきます。そこには何の差別もありません。どんな環境、どんな性格、そして今どんな状態にあろうとも、イエス・キリストを信じる人には、そのことが約束されているとパウロは語り、聖書は語っているのです。この約束の言葉を信じて、この一週間を共に歩んでいきたいと思います。

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