2021年2月21日 聖書:フィリピの信徒への手紙3章12~16節「目標目指して」茶屋明郎牧師

 パウロが、フィリピ教会の人たちに信仰によって救われる福音を述べ伝えていく中で、間違った信仰理解をしている人たちが気になり、看過ではないと思われるほどに深刻に受け止めていました。
 それは、救いを得ること、救いの恵みをうること、つまりキリストを知り、キリストにつながり、永遠の命に預かり、安心と喜びと希望を抱くという救いすでに得て、自分は完全であると思い、満足し、もう得る必要はないし成長する必要はないと思っている人たちでした。
 これに対して、パウロはすでに捕らえたとは思っていないし、捕らえようと努めている。つまり、これでいいと思わないし、得ている恵みを完全につかんではいないし、まだ道半ばで、まだ未熟だ、まだ途上にあるという思いを告げています。
 パウロからすれば、信ずることは、一度信じれば、これでよいということではないし、その都度信じていくかどうかを決断していくことであるし、その都度信ずることによって救いの力を得、恵みを受けていくことになる。
 また、信じることによって得られる神からの救いの恵みと愛は、限りなく豊かで、深くて、高くて、広がりのあるものであり、簡単に、すぐに、すべてを得ることはできないものであり、汲めども汲めども尽きない無限なものである。
 また、人間はそもそも完全ではないし、欠けがあり、弱さがあり、罪深いものであるということ。
 彼らは、これらのことがわからずに、謙虚になれずに、高ぶった思いになり、気まずい雰囲気を教会にもたらしていたということかもしれません。
 さまざまな分野で一流と認められている人達が、パウロのようにまだ未熟であり、まだ駄目だと理解していることは、謙虚さこそ一流の証であることの示しかもしれません。
 パウロが謙虚な人になれているのは、キリストに捕らえられているという受け身の信仰によってであり、今、私たちがここに、教会に来ることになっているのは、神がまず先に、私たちに目を留め、導き、愛して、赦してくださっていることを理解、神に出会い、新しくされたことによってです。

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