2021年3月7日 聖書:ルカによる福音書6章37節~45節「人を裁くのは誰」世良田静江牧師

NHKのドキュメンタリー番組で、東京築地本願寺の総務長の方が毎日一万人の参詣者が少しずつ減少して遂には四千人となり、依頼を受け、銀行員だったが五年前より改革に乗り出している。その計画実行の姿を放映していた。パイプオルガン演奏での仏教歌、カフェレストラン、宿坊宿泊、お見合いの斡旋…etc。改革を実践へと行動する姿が活気に溢れていた。さて、本日の箇所は私たちに刺さる言葉です。愛の反対は「憎しみ」であり「裁き」です。愛が美しい言葉であるように、裁きの彼にも正義という美しい言葉があります。「私は自分の利益で言っているのではない。ただ彼を悔い改めさせ、正しい道に導きたいのに、もし、これを許しておくと正義はどうなるのか」イエス様は人を裁いてはならない。正義の叫びでも言ってはならないと言っているのではありません。自分の目に丸太が刺さっているのに、兄弟の目にあるちりを取ってあげましょうとどうして言うことができるのかと言われているのです。まず、自分の目から梁を取り除き、その時、兄弟の目にある塵を取り除けなさい。その時あなたの兄弟の目にある塵は取り除けられて程なくはっきり見えてくるでしょう。こう言っておられるのです。つまり人を正すことがいけないのではなく、自分の目に梁があるのを忘れていることがいけないのです。私たちは常に人の上に立ちたい、優越感に浸りたいという気持ちと同居しています。そこにはいつの間にか意識しないで上下の思いが出てくるのです。神という絶対の基準が現れ、自分が打ち砕かれるまで人は気づかないのです。
「許しうるものを許す それだけならどこに神の力が要るか 人間に許しがたきを許す そこから先きは神のためだと知らぬか」八木重吉
この詩は人間同志の中に神が入ってくることを教えています。信仰者の祝福の言葉は呪う者にむけられ十字架の愛に生きる者の祈りは実は自分を軽蔑する者に向けられる。つまり祝福の祈りは清らかな宗教的行為は他でもなく呪い侮辱といった事が幅をきかせている世俗の中で発揮するのです。他人を裁くことによって、私たちは自分を罪に定めているのです。神さまは私たちが判断する以上によくご存知です。人間の判断はいつも自分が絶対ですが、この絶対の枠を取り除かないかぎり人を正しく判断することは出来ません。この枠を取り除く作業、これが信仰にほかなりません。主の愛に打ち勝たれた時のみ、私たちは相手の導き手となり得るのです。十字架上で苦しまれ許された主によって私たちも裁きよりも許すものになりましょう。

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