2021年3月14日 聖書:創世記10章32節~11章9節・使徒言行録2章1~4節 「私たちの本国は天にある」川本良明牧師

●150年前、日本は欧米諸国並みの国をめざす一方で、アジア諸国蔑視の種を、まずアイヌの地と琉球に播き、つぎに朝鮮に枝葉を伸ばすと、日清・日露戦争に勝利して植民地にしました。土地や会社を奪われた朝鮮人が続々と日本に渡ってきて、1909年に東京に最初の教会が誕生しました。朝鮮本土とはまたちがった苛酷さが続いている中にあって教会は増えていき、北九州にも2つの教会が建っています。しかし初めて教会が建ってから1世紀が経ちましたが、ヘイトスピーチなど、今もなおその苛酷さは変わらずに続いていることを思わずにはおれません。
●先月の21日、在日大韓基督教会折尾教会の信徒の方の葬儀がありました。その葬儀は、彼の弟の金泰仁牧師の司式によって行なわれました。弟が牧師になったことをたいへん喜んでいて、主の御許に召される前、彼は葬儀の司式をぜひ弟にしてほしいと頼んでいたからです。じつは35年前から若松浜ノ町教会は折尾教会と交流を続けていますが、若松浜ノ町教会の信徒として最初から関わってきた私は彼のことを知っていました。それで葬儀に参列させていただきました。ところがひじょうな違和感を感じたのです。それは、亡くなった彼の名前が、聞いたこともない名前だったからです。つまり本名ではなくて日本名いわゆる通称名だったのです。それは遺族のたっての願いだったことを、あとで金泰仁さんからお聞きしました。
 今、夫婦別姓のことが話題になっていますが、在日韓国・朝鮮の人たちは、別姓のこと以前に、本名を隠して日本名で生活することを余儀なくされています。この事実を目の当たりにしたのが葬儀の席だったわけです。今やマスコミは、韓国の大統領をブンザイインではなくムンジェインと本名読みすることが当たり前になっています。しかし一般の日本社会の中では、ひじょうに壁が厚いことを痛切に思わされたと同時に、ほんとうに申し訳ないと思いました。壁を厚くしているのが私たち日本人の責任であると思うからです。
 そして教会はすでにこうしたこの世の現実を超える共同体であると信じています。ですから今日の説教題を、<私たちの本国は天にある>(フィリピ3:20)としたのは、民族の事柄をあらためて聖書から聞こうと思ったからです。
●聖書で民族という言葉が初めて現れるのは創世記10章です。1節には<ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図は次のとおりである。>として、各系図の終わりの5節、20節、31節で、<氏族、言語、民族ごとに各々の地域に住んだ>と語り、最後を<ノアの子孫である諸氏族を、民族ごとの系図にまとめると以上のようになる。地上の諸民族は洪水の後、彼らから分かれ出た>と締め括っています。
 <ノアの子孫である諸氏族>という言葉は、新しい人類も洪水前と同じ罪人であることを暗示していますが、にもかかわらず神は、人類を、<氏族、言語、民族ごとに各地域に住まわせた>というのです。ここには民族間の対立や憎悪、戦争などの響きはありません。まったく平和な雰囲気があります。
 また系図の中に出てくる名前は、個人なのか、家族、氏族、民族なのか見分けがつきません。人類が夫婦から家族、家族から氏族、氏族から民族にまで発展してきたことを考えると、民族は、結婚を通じて互いに混じり合い、程度の差はあっても混合して形成された混合民族であるわけです。ですから単一民族国とか純血民族などの見方やある民族だけが特別に優れているとの見方はなく、むしろ民族は多様であると聖書は語っているのです。
●次の11章でも民族のことが語られています。神はノアの洪水が終わった後、人類を滅ぼしたことを悔いて、<わたしは二度と洪水で滅ぼさない>という契約をノアと結びますが、そのことは11章においても変わりません。<同じ言葉を使って、同じように話していた人々が、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着き、石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた>とありますが、言葉を標準語に統一して、技術革新で幸福な生活をめざし、文化を発展させることなどに何の問題もありません。しかし、何のために、何をめざしていくのか、目的によっては危険な悪に変わる、と聖書は語っているのです。
●それでは何が悪かったのか。それが、<さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう>ということです。つまり人間が神のようになろうとしたのです。すると快適な住まいをもたらすはずのレンガとアスファルトが、富と権力を象徴する塔の建設に用いられるようになっていき、やがて人の命よりもレンガが大切な社会に激変していきました。善意で始めた福祉施設が隔離施設に変わるなど、よく見られることです。それを見た神は、人間のごう慢に対して一撃を加え、塔の建設をやめさせました。その手段は洪水ではなく、言葉を混乱させることでしたが、このために人々は、一緒に住めなくなり、諸民族が発生したというのです。この物語は、<主が彼らを全地に散らされた>と語り終えることで、少なくともアジア・アフリカと周辺の島々などに住むすべての民族を見すえていると考えていいと思います。
●このように聖書は、10章と11章1~9節で、民族の発生を、祝福された神の定めという面と神の怒りと裁きという面から語っています。つまり民族は、伝統と秩序を重んじながらも狭く自己閉鎖的になる面と、自己閉鎖性を打ち破って広く開かれながらも侵略的で人の命よりもレンガの方が大切になる面の2つを併せ持っていると語っています。そして聖書は、世界の民族がこれらをくり返している現実を神はご覧になり、この現実をご自分の事柄として真剣に受けとめておられると語っています。それが、創世記12章から始まるユダヤ民族の物語なのです。
●その物語は、神がアブラハムを全人類の中から選ぶことから始まります。神は彼が百才、妻のサラが90才のときにイサクを授けました。その約束を神から聞いたとき、彼らが笑ったのは当然です。しかしそういう人間の「当然」を打ち破って、神は子供を授け、その子孫が増えていきました。これはまったく新しい神の創造のわざであって、こうしてユダヤ民族が興ったのです。ですからこの民族は、世界のあらゆる民族とはまったく異なる特別な民族であることが分かります。彼ら自身、詩篇100:3に、<知れ、主こそ神であると。主は私たちを造られた。私たちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ>とあるように、ただただ神だけが自分たちの存在の根拠であることを、たえず再確認しています。また神ご自身も、その御心を、ユダヤ民族を通して示そうとされます。しかし彼らはいつも他の民族と同じような民族に成ろうとします。すると神は懲らしめ、散らし、再び集めることが繰り返される長い歴史が旧約聖書に書かれています。やがて神は、イエス・キリストとして来られ、人間の罪によって十字架に殺されたことによって世を贖った後、復活してまもなく起こったのが、先ほどお読みした聖霊降臨の出来事なのです。
●この出来事の中心的な意味は、聖霊を注がれた人たちが、それぞれの国の言葉で話すことが起こって、世界の民族が向かって行くべき道が示されたということです。世界全体から見るとじつに小さな出来事かも知れませんが、ちょうど五旬祭の日に、故郷を追われて異民族の中で生まれ育ったユダヤ人たちが、世界各地から巡礼でエルサレムに集まっていました。その彼らが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いたのです。しかも神の福音が語られているのを目の当たりにしたとき、三千人もの人々が洗礼を受けて教会が誕生しました。こうして神の福音が、ユダヤ全土から全世界に伝えられることが始まったのです。そして地域だけでなく、ユダヤ民族からあらゆる民族に神の福音が宣べ伝えられていくことが起こったのです。
 もちろん教会を起こしていくのは神ご自身であって、教会が自分の力でしているのではありません。宮田教会も人間の業ではなく神が建てられた共同体です。しかし、たしかにキリストによって建てられていますが、神は人間の働きを抜きにしては事を進められないということもたしかです。
●同じ言葉を使い、幸福な生活をめざして技術革新をはかり、文化を発展させることは神の祝福であるのに、人は罪を犯してバベルの塔建設をめざして悲惨な現実をもたらしています。しかしこの罪の現実が、一般的な話ではなくて、足下の教会において見られることを私たちは見落としてしまうのではないかと思います。
 私たちは、大和民族の優秀性を主張して単一民族論を公然と主張したり、今なお外国人を排外と同化で扱っている日本社会にあります。このような中にあって、身近なところに在日韓国・朝鮮人あるいは外国人がおられることは、神の恵みではないかと思います。周知のように在日の人たちは、芸能界やスポーツ界など数多くの分野ですばらしい活躍をしています。けれどもそのことを私たちは、日本名で活躍しているために気づいていないのではないでしょうか。しかしそのことが、社会一般のことではなくて、教会がそれに対して無自覚ではないかと思うのです。
●ですから教会は、日本社会の中で自分を抑圧して生きざるを得なくされている人たちが、解放されて、自分自身を取り戻す共同体とならねばなりません。聖餐にあずかることが度々ありますが、聖餐にあずかるとき、キリストは私たちの内に親しく臨んでくださり、この恵みによって私たちは、主において1つにされます。けれども「キリストにおいて1つである」ことは、民族としての違いを否定することではありません。むしろ、民族性がイエス・キリストにおいて回復されるのです。神から与えられた民族性を、祝福として、恵みとして、違いを違いとしてお互いに認め合い、受けとめることが教会ではないかと思います。つまり教会は、民族性が回復されて、それが神から与えられた良きものとして、お互いに愛し合い、認め合うことを証しする場所なのです。このことを聖書を通して学ばされていることを深く感謝したいと思います。

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