2021年4月11日:聖書 詩編62篇~8節「主よ、いやしてください」川本良明牧師

●先週は、どの教会でも主の復活をを祝いました。私はその3日前から使徒パウロの言葉を何度も読んで、イエスと弟子たちの最後の食事の場面を思いました。それは聖餐式の「制定語」で紹介されるⅠコリント11章23~26節の言葉です。
 イエスがパンを割いて「これは私の体です」と言われ、また杯も同じようにして「これは私の血によって立てられる新しい契約です」と言われたことを紹介した後、パウロは「主が来られるときまで主の死を告げ知らせるのです」と勧めています。彼にとってイエスの復活は大前提です。また3つの福音書は皆、イエスが、<神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲まない>と言われた言葉を伝えています。これは明らかに復活の予告です。事実、イエスは復活後、弟子たちと飲食を共にしています。ですから聖餐式文を、「主の死と復活を告げ知らせるのです」とあらためて、十字架の死という否定的な面と、同時に復活の喜びのうちに聖餐にあずかるべきだと思います。
●この勧めの後、聖霊を求めて、「御言葉と聖霊によって、このパンとぶどう酒とを聖別してください」と祈りますが、これはヨハネ6章53~56節が伝えているイエス御自身の言葉によるものです。ですからパンも杯も、単なる象徴ではなくて、具体的にイエス・キリスト御自身の命という実体だということです。聖餐にあずかるとは、キリストの体と血という命そのものにあずかることなのです。私にとって受難週とイースターは、このイエス・キリストの命を見すえるときでありました。
●私は教会で誕生日を祝うことに積極的になれませんでした。しかし宮田教会で受洗者を「とりなしの祈り」の対象にしているのを見て教えられました。イエスは、<誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉であり、霊から生まれたものは霊である>と言われています。それで受洗日が霊の命の誕生日だと知った私は、肉の命ばかりか霊の命にあずかり、永遠の命が約束されていることに感謝して、3月の受洗日に献金をしたわけです。
●聖書は命を「肉の命」と「霊の命」とを語っています。このことを正しく知ると、いろんな分からない言葉が解けてきます。たとえば<私を信じる者は死んでも生きる>とイエスが言われた「死んでも生きる」という言葉などです。それでこの2つの命を考えてみたいと思います。私たちは皆、創造主である神に造られた、いわば神の作品です。魂と体が統一した命です。これが「肉の命」ですが、神の働きかけがないと死んだも同然の罪の状態にあります。では罪とは何か。それは「欲」です。<欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む>(ヤコブ1:15)とあるように、神から与えられていると感謝しないで欲になり、それがはらんで罪を生み、死んで朽ち果てるのです。しかし、この肉の命に神の霊が働きかけると、霊と体が統一した生きた命となります。これが「霊の命」です。神の霊が働きかけると生きたものとなる場面が、エゼキエル書37章1~10節に書かれています。
●神が預言者エゼキエルをある谷に連れて行くと、そこに虐殺された人々の枯れた骨が累々となっていました。これに向かって預言せよと神から言われて預言すると、骨と骨が近づき、骨に筋と肉が生じ、皮膚で覆われます。そして霊に預言すると霊が四方から吹きつけられ、生き返って、非常に大きな集団となるのです。
●この出来事は、私たちのためにも記されているのです。私たちは神の作品です。しかし欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み、枯れた骨となっています。こんな私たちに聖霊が宿り、霊の命に生きる者とされているのです。それが私たちです。ところがそのために何が起こったのか。それは、創造主なる神の子キリストが、人間イエスとなって来られて、私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの罪を贖ってくださいました。このことによって私たちは生きた者とされているのです。
●イエス・キリストは私たちと同じ被造物です。しかし彼は、私たちとちがって、被造物としての限界に縛られず、また罪に囚われていながら罪を犯さず、また私たちと同じように死にましたが、彼は死の壁を打ち破りました。これが復活です。神の子であり人の子である彼は、2つの命をもったお方でした。そしてたえず肉の命を捨てながら霊の命に生きる戦いの生涯でした。つまりいつも父なる神に祈りながら肉の命を捨てると同時に聖霊によって霊の命に生き抜くという戦いの生涯でした。しかもそれが神から与えられた彼の人生の使命であって、その使命を完全に果たし終えました。ですから神は彼を三日目に復活させられたのです。これが復活です。
●この復活の出来事で忘れられないのは、12年前に亡くなった一人の姉妹のことです。出会って1年ほどで、2人の娘さんを連れて故郷の神戸に引っ越したので、彼女のことは、3年前に不治の病にかかっていたことと子どもや孫に恵まれて、じつに柔和で、平和で、明るく、前向きな人柄という程度しか知りませんでした。そして到着と同時に通知されていたのとは別の住居に変更させられたという便りがありましたが、亡くなられたのはそれから1年ほどでした。ところが連絡を受けて神戸に行きますと、その住居の場所が彼女の病にとって想像を絶する苦しみを強いるが環境であることを知りました。またご遺族の方々から彼女の壮絶な生涯をお聞きしました。両親が沖縄から移住して、きびしい差別の中で仕事がなく、極貧の生活でした。戦後に生まれた彼女は、4人の子どもの守りをするなど、その後もものすごい人生でした。それらのことやこちらに移り住んでからも苦難の毎日を過ごされたことを思い、しかもあのように温もりのあった彼女の姿を思い巡らしている中で聞こえてきたのが、先ほどお読みした詩篇第6編でした。
●2~6節から、この詩人がたいへんな重病人であることが分かります。体力の衰え、不安定な心、たえまない歎きとうめきの中で、生きる気力を失い、死を間近にしています。しかし多くの詩篇に見られるように病名が特定されていません。しかも病気に苦しみながら訴えています。しかし、「主よ、癒してください。主よ、いつまでなのですか」と訴えている相手は、医者でも家族でも知人でもなく神です。私たちは、病気になると、当然、病院に行って医者に診断してもらい、治療してもらいます。けれどもこの詩人は、そのようには見ていません。「主よ、怒ってわたしを責めないでください」と神に訴えています。
●古代においても診断や治療はあったし、この詩人も医学の知識や治療を知らなかったとは思えません。けれども彼は、今自分を襲っている病気に対して、上からの光によって、その意味を考えているのです。死を間近にして彼は、神を信じる者として、神をかっこに入れてこれを考えることはできませんでした。まさに肉の命の背後に神が居られるという信仰に立って、霊の命に生きようとして戦っているのです。そしてその戦いを経て彼は、9節以下を告白する者へと変えられていきます。ここで「敵」とは、自分の中にあり、自分を責め、もうダメだと絶望させようと襲ってくるものです。これに対して彼は戦っているのです。ですから彼は、肉の命の背後にある神への信仰に立って、霊の命に生きようとして戦い、その戦いを経てこのように告白する者へと変えられていき、復活の勝利の光を見ています。ここにイエス・キリストを指し示す旧約の人たちの立場がよく分かります。
●人生の大半が苦難の道であり、とりわけ晩年は不治の病となり、移住先も期待を裏切られて、思いもかけないひどい環境に追いやられ、もがき、たいへんな苦しみの中で、彼女ははぎ取られていったのではないかと思います。つまり試練の中で、人の思いをはるかに超えて、彼女は真実な神さまにどんどん近づいていったのではないかと思うのです。いやもっと正確に言えば、神さまの方から彼女に近づいてこられて、恵みと平和の中に身を置く者とされていき、その生涯を終えられたのだと思いました。というのは、誰もいない教会の礼拝堂にお棺が安置されていました。私はご遺体の顔の覆いをそっと取って彼女の顔を見ました。すると久しぶりに再会した私を見て、すぐに起きあがって語りかけるようだったからです。
●その後、ご遺族の方々が口を揃えて自分の親不孝を悔いておられるのを聞いて、本当につらく悲しくなりました。その中でイエスの言葉を思い出しました。<わたしは復活であり、命である>という言葉です。そうだ、イエスさまは、会堂長ヤイロの娘を生き返らせ、ラザロを復活させたではないか。もしイエスさまがここにおられたなら--おられないはずはない! 彼女を今ここで生き返らせることができないはずはない。どうして生き返らせないのだろうか。みんな悲しんでいるのにどうしてなさらないのだろうか … …。ところがそのとき心に湧き上がってきたのは、「今はそのときではないからではないか、終わりの日にはすべての主の証人たちと共に彼女もよみがえるはずだ、しかし神さまには大いなる計画があって、今は生き返らせないのだ、だから深い眠りにつかせられたのだ」という思いでした。
●肉の命を捨て霊の命に生きる戦いに勝利したイエスを通して、その愛を示された神は、試練の中にあって、肉の命をはぎ取り、霊の命で覆ってくださることを、詩篇の詩人やあの姉妹によって証ししてくださいました。私たちもまたその恵みにあずかることを約束してくださっていることを信じて歩みたいと思います。
●ところで葬儀の悲しみの中で復活を強く願ったことを語りましたが、今は思います。もしも目の前で実際に死者が生き返ったら本当に喜び感謝するだろうか、最愛の人は別にして、人間はとんでもない反応をすることを聖書は語っています。だから今は、神はなぜイエスを復活させられたのだろうかと思っています。イエスは十字架の死において完全に使命を果たされたのです。私たちの罪は完全に贖われたのです。信じる者だけでなくすべての人が、罪を贖われて永遠の命を約束されているのですから、そこで世界は終わっても良かったはずです。それなのになぜ神は復活させて、時間を終わらせなかったのでしょうか。それは、神は、私たちを抜きにして救いの業を完成させられないからです。ですから今、イエス・キリストは神の右にかしらとしておられ、地上においては、その体として教会を建てているのです。
●教会は、目に見えないけれどもイエス・キリストの体です。この体である教会に私たちは招かれています。しかも罪人であり、神の作品としては台無しであり、情けない私たちにもかかわらず、招き、呼び集め、聖霊を与えて、その実を結んで、キリスト者として成長させて、すべての人にご自分の愛と恵みと平安を宣べ伝えるように用いてくださるのです。そのように用いてくださるために、私たちを鍛え、育て、私たちを造り変えて、互いに愛し合う人間に変えていくために、十字架に死んで終わらずに、復活して時間を続けておられるのです。そのように用いられるために私たちは、前もって、世の人に先んじて、特別に選ばれている者です。このことに感謝をもって神の愛に応えながら共に歩んでいきたいと思います。

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