2021年4月18日 聖書:ルカによる福音書24章1~12節「命の勝利」茶屋明郎牧師


 水泳選手の池江璃花子さんが、難病の白血病に罹り、闘病生活を強いられ、死に直面させられるという絶望的な状況と恐怖に向き合い、その恐怖にめげず、忍耐し、恐れず、勇気と希望をもって病と闘い、見事に病に勝利し、水泳選手として復帰でき、優勝し、オリンピック代表選手の内定を得るという驚くべき奇跡的なことがありました。
 私たち凡人にとっては、池江選手みたいな特別な人にはなれませんが、しかし、凡人でも、絶望的な状況や死の恐怖から解放されて、勇気と希望をもって生きていく命が与えられる道が開かれている。それは復活の出来事を通して実現すると教えられています。
 弟子たちは、イエスが十字架につけられ、死んでしまった時、絶望し、打ちひしがれ、生きる力を失いましたが、しかし、復活のイエスに出会って、見違えるように変わり、生き生きと、雄々しく、喜びに満ちて、勇気と希望が与えられ、命がけで宣教に励んでいく大いなる力が与えられ、キリスト教を生みだし、教会を誕生させています。
 復活は、池江選手みたいに復帰する、カムバックするということではないし、また蘇生することでもなく、そうではなくて、新しく生まれ変わること、新生のことであり、死んだ者が新しい命に生きることであり、永遠の命に生きるということです。
 ハンセン病と闘った玉木愛子さんが「幼虫はらばへり蝶と化ける日を夢見つつ」という俳句にあるように、新しい命に復活するという信仰によって、過酷な絶望的な人生を強いられる中で、絶望から解放され、忍耐し、勇気と希望をもって、感謝と喜びながら、日々を生きていくことができています。
 キリストの復活を伝えている聖書には、イエスが死んで墓に葬られてから三日目に女性たちが、イエスの死体に香料を塗ろうとして赴いた時、墓は空っぽになっていて、その時、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」という言葉を女性たちは聞き、非常に驚き、恐ろしくなり、このことを弟子たちが聞いても、たわごとのようにしか受け止められなかったことが記されています。
 生ける神によって復活させられている出来事は、生ける神が死を滅ぼし、命を与えることができる大いなる方であり、無から有を生じさせられる全能の、創造主なる方であり、この世は運命や宿命によって支配されているのではなく、不気味な力によるのでもなく、そうではなく、生ける神によって支配されていること、支配している生ける神は、あらゆる罪をゆるしてくださる愛と慈しみに溢れた方であり、この方によって命が与えられ、生かされて生きているのが人間であり、すべて人が神と共にある、という真理を示している。
 この真理に生きることによって、絶望的な状態に置かれても、恐れず、希望をもって雄々しく、喜びと感謝を忘れずに、生きていくことができることが訴えられています。
 復活を信ずることは大変難しく、困難であるために、神話説、仮死説、盗難説 幻覚説、そして作話として理解されています。この理解によってはどうしても解決できずに、納得できない課題が残ります。それは、この後、弟子たちが命がけで、命を顧みず、命を犠牲にしてまでも、「十字架につけられたイエスは復活した。復活したイエスに出会った。この方こそ救い主である」と伝道していったことです。神話説や幻覚説のために命をささげることができるのだろうか。いや、できるはずがないと思うわけです。だから、イエスは確かに復活され、新しい命に生きておられるのだ。これが真理だと確信できます。
 復活を信ずるためにどうすればよいのかという課題が残されています。つまり、理性を犠牲にして、無理して、強制的に納得させて信じることをせずに、自然と、おのずと、すっと信ずることができるためには、まず、イエスの十字架の苦難と死による贖いと罪の赦しを信じ、神との和解が生まれ、神につながり、神の愛の力に支配され、神と出会い、徹底的に、自己が打ち砕かれ、無に等しい者にさせられる信仰に生きることです。
 この信仰に立てば、おのずと、自然とイエスの復活を信ずることができるはずですし、私自身もその信仰の中で、イエスの復活を信じて、希望と喜びと感謝を与えられています。

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