2021年5月9日 聖書: マルコによる福音書10章46~52節「いつもあなたの名は呼ばれている」 川本良明牧師

●エリコの町は、間近になっていた過越の祭のために、イエスの一行を含めて、エルサレムに向かう人たちが沿道にあふれていました。その道端で物乞いをしていた一人の盲人が、ナザレの人イエスだと聞くと、大声で<ダビデの子イエスよ、私をあわれんでください>と叫び始めました。彼をティマイの子バルティマイという名で記していることから、町ではよく知られていた人であり、また物乞いのくせに過ぎた振る舞いをするなと叱りつけたのを見ると、彼がどのように見られていたか分かります。しかし彼はひるまずますます叫び続けました。ツバメの親鳥は、餌をねだるヒナたちの口の開け方を見て餌を与える、と言われていますが、彼の叫びもそのように切実であって、今を逃したら救いの機会は二度と来ないと必死でした。
●バルティマイは<ダビデの子イエスよ>と叫んでいます。当時の人々は、キリストはダビデの子孫から生まれて、軍事的・政治的指導者として自分たちを敵の支配から解放してくれると信じていました。イエスが、病をいやし、盲人の目を開け、悪霊を追い出し、死んだ少女を生き返らせ、5つのパンと2匹の魚で5千人を養うのを見て、このイエスこそ来たるべきキリストだと確信したのは当然でした。だから人々は、彼をダビデの子イエスと呼んでいました。しかし、イエスはどのように思っていたかというと、律法学者やパリサイ人たちが仕掛けてくるどの問答も打ち負かして質問がなくなった時、彼の方から質問して、「あなたがたはキリストをダビデの子と呼んでいるが、ダビデ王自身がキリストを主と呼んでいるのに、なぜキリストをダビデの子と呼ぶのか」と言って、きびしく退けています。
●しかしバルティマイは、人々のようには理解していませんでした。それは、彼がイエスに言った言葉からして、イエスを正しくとらえていたことが分かるからです。彼はイエスから呼ばれたとき、自分の服を投げ捨てて、喜んで行きました。そしてイエスが、<何をしてほしいのか>と言うと、<ラボニ、目が見えるようになりたいのです>と言いました。「先生」と書いていますが、原語は「ラボニ」です。
 この「ラボニ」は福音書にもう一カ所出てきます。イエスに向かってそのように言った人がマグダラの女マリアです。イエスが葬られた墓で、復活したイエスから「マリア」と呼ばれて、思わず「ラボニ」と答えたのです。
●マグダラとは、ガリラヤ湖から数㎞の町の名前です。地名で呼ばれているので、彼女は裕福だったようです。イエスの弟子には悪霊や病気を治してもらった女性たちが何人かいました。彼女もその中の1人で、「7つの悪霊を追い出してもらった人」と紹介されています(ルカ8:2)。現代医学でいう統合失調症ではなかったかと言われますが、女弟子としてイエスの受難と復活に重要な役割をした人です。彼女が聖書で登場するのはイエスが十字架で殺されていくあたりからです。
●死刑の判決を受けて十字架を負わされていくイエスを見、そして「あれだけ奇跡を起こされたお方が、なぜこの処刑を受け入れたのだろうか」と自問自答しながらイエスをじっと見すえて、ゴルゴタで、鞭打たれ茨の冠をかぶせられたりして血だらけになったイエスが、仰向けにされ、手足に釘を打たれるのを見たとき、彼女は、「自分には何もできない。だけど今自分にできることは、このお方の目撃者になることだ」と決意しました。それで最期までイエスの様子を全身で受けとめ、やがて覆ってきた暗闇の中で、イエスが<父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです>ととりなしている声を聞きました。やがて<わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか>と叫ぶ声を聞き、<父よ、わたしの霊を御手にゆだねます>と言って息を引き取ったのを見届けました。
●彼女は、イエスのいない今、昔の悪霊どもが襲ってくるのではないかと恐れていました。その不安を抱えながら彼女は、ひっそりと身を隠していた男の弟子たちの所に行って、イエスの死を知らせました。それを聞いた弟子たちは、本当に不安と悲しみに落ち込んでしまい、ますます息を潜めていました。しかしマグダラのマリアは、週の初めの日の早朝、悲しみのために墓に向かいました。
●ところが墓の入口が開けられ、遺体がありません。墓が荒らされたと思った彼女は、すぐにペトロに知らせました。そこで墓に走っていくペトロとヨハネについて行き、墓の様子を見た彼らが帰っても彼女は墓にとどまりました。そして墓から出ようとすると、二人の御使いがいて彼女に語りかけます。しかし彼女は悲しみのあまり返事をしないまま墓を出るのですが、その後の様子がヨハネ20:14以下には次のように書いています。<こう言いながら後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。……16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。また父のもとへ上っていないのだから。……」>
●イエスに「マリア」と呼ばれて思わず「ラボニ」と答えるほどに、彼女はイエスに強いつながりを抱いていたことが分かります。このマグダラのマリアの姿と同じように、イエスを「ラボニ」と呼んだバルティマイに対して、イエスはマグダラのマリアと同じ覚悟があると信じていました。彼はそのイエスの信頼に応えました。イエスが<何をしてほしいのか>と尋ねると、人間として価値のある何かではなくて、単純に「ラボニ、目が見えるようになりたいのです」と願いました。この言葉の中に、彼がどれほど切実かつ真剣にキリストにお会いしたいと願い続けていたことか、その長い信仰生活がにじみ出ています。だからイエスは「マリア」と呼んだように「バルティマイ」と呼びかけませんでしたが、<あなたの信仰があなたを救った>と言われ、彼は見えるようにされたのです。
●イエスを来たるべき軍事的・政治的指導者のキリストと見ていたのは、一般の人たちだけでなく弟子たちも同じでした。バルティマイの物語より前にさかのぼって、8章から10章までを眺めてみますと、エルサレムに近づくにつれて、弟子たちや人々は、いよいよイエスが事を起こされると思っていました。つまりダビデの子キリストとして、政治的・軍事的指導者としての行動を起こされると見ていました。ですから弟子たちの関心は、もっぱら「だれが一番偉いか」であったことが、何度も出てきます。しかしイエスは、ペトロの信仰告白の後からエルサレムで人々に捨てられ、殺され、3日後に復活すると言いました。そしてその後も3回だけでなく、都に近づくにつれて何度も彼らに受難の予告をしていました。しかしバルティマイは、苦難と死に向かっていくキリストを見すえていたし、彼の目線は、マグダラのマリアと同じ目線であったのです。
●マグダラのマリアとバルティマイは、神と最も深いつながりにありました。彼らはイエスを「ラボニ」と呼びましたが、むしろそれ以前に、彼らの方が神からその名を呼ばれていたのではないかと思います。イエスは「マリア」と呼び、バルティマイにはそのように呼びかけませんでしたが、神は彼らがどういう信仰生活をしていたか分かっていました。しかし神が「その名を呼ぶ」ということは、単なる名前ではありません。同姓同名の人はいるし、マリアだけでも沢山います。だから単なる名前ではなくて、彼女が「ラボニ」と答えたのは、イエスが彼女の存在そのもの、つまり彼女の命にふれたからです。
●今日の招きの言葉でイザヤ43:1が紹介されましたが、これは簡単に言えば、<あなたは神のすばらしい作品だ。だから恐れるな。私はあなたを贖った。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶのだ>と言っています。<私はあなたの名を呼ぶ>とは、あなたを正式名で呼ぶということです。それをリンゴにたとえて言えば、リンゴは外側と中身があり、真ん中に種があります。つまり外側は意識です。中身は無意識です。この意識と無意識を突きぬけて、肝心な真ん中にある命が人の正式の名前であって、神はそこに向かって語りかけるのです。ですからイエスは、マリアの意識・無意識の領域ではなくて、もちろん<すがりつくのはやめなさい>と言われたように肉体の領域でもなく、存在の中心、種、命そのものである彼女を、イエスは「マリア」と呼ばれたし、バルティマイに対してもそのような目で彼を見、呼びかけていたことが分かるのです。
●今コロナで物も金も旅行も閉ざされていますが、そのために私たちは、何を、どうするかということに目を奪われやすいのですが、この状況が何のために起っているのか。何をどうするではなく、何のために、どういう意味があるのかを問うことが求められているのではないかと思います。つまり自分いわゆる名前や女・男とか、学歴、状況、場所、健康、能力、肩書きや道徳や人間性などは皆、意識・無意識の領域です。しかしそれらを突きぬけて、神は真ん中の命に向けてその名を呼んでおられます。説教題の「いつもあなたの名は呼ばれている」ということです。
●否、それ以上に考えなければいけないのは、聖霊が私たちの種、命、存在そのものにふれてくださっており、神とつながらせていただいているということです。このつながり、神から名を呼ばれているという本当の平安、それが外におのずから現れて、説明や理屈ではなくて、神が私の名を呼んでくださっているという本当の平安が、おのずから外に現れてくるために、神は今の状況を私たちに与えているのではないかと思うのです。そのことを信じるとき、私たちは、まだ来ていない永遠の命を先取りして生きることが赦されていることを共に喜びたいと思います。そしてこの一週間、そのことを感謝をもって共に歩みたいと思います。

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