2021年5月16日 聖書:ローマの信徒への手紙2章17~28節「人の生き方」豊田護兄

 聖書のこの箇所は、人は外見やその地位や人種ではなく、その人の信じるものでその価値が決まると言う、当たり前だけれどもなかなか当たり前にならないことが書いてあるように思います。そしてそれは、その人の生き方で決まるような気がします。

 昔50年ぐらい前、オーケストラで仕事をしていた時期、年間50回を超えるコンサートと練習で疲れ切って帰ってくる道すがら、いつもの坂道で10年後の自分はどうしているだろうと良く考えていました。50年後まだトロンボーンを吹いている自分を見て、何でだろうと考えます。この生き方で何を得そして何を無くしたのだろうと思います。その人がその人の生き方を選ぶという事は、その人の人生の全てを選ぶという事かもしれません。
 パスカルのパンセの中に、「人生の全てをさいころで決めていた男と、全てを自らの考えで決めていた男と、その人生はたいして変わらなかった」という文章があります。人は生きていく上で、自らの幸福を願って生きています。そしてその人の幸せがなんなのかという事が、その人の生き方を決めて行くのではないでしょうか。その人が何を大切に生きているかを見たら、逆にその人の生き方も見えてきます。世間一般の多く人が求めているお金や名誉を求めれば、世間的にはちやほやされて、「大人」ともてはやされるのかもしれません。反対にお金は沢山無いけれど、自分の信じる声に従って世間とは違う生き方をすると言うのがあってもおもしろいと思います。その人はお金が無くとも地位や名誉が無くても、決して自分を不幸だとは思わないでしょう。
この季節5月1日のメーデーのデモに父に手を引かれ風船を持って歩いた街角、6月1日天神の交差点を数千人の若生年労働者の一人としてジグザグデモをやり機動隊にこづかれた日々を思い出します。みんな何か大切な信じる何かを持っていた気がします。懐かしい音楽のような響きのする何かを。
人の生き方はその人が何を求めているかによって決まるきがします。

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