2021年5月23日 聖書:使徒言行録2章1~13節 「言葉と信仰」大薮善次郎牧師


 今日はペンテコステといって教会の誕生日だ。
「聖霊を受けると、弟子たちは色々な言葉で語り出した。」
つまりイエスを信じる者たちに自然に与えられたのが聖霊なのだ。私たちはイエスを信じたところで、私たちの語る言葉には聖霊が宿っていることになる。

 昔の人は言霊(ことだま)と言った。話すことばにはいつも魂が籠っているのである。イエスを証しするということは、このことを信じて語ることなのだ。
イエスは真の神を私たちに示してくださった。つまり罪からの解放である。

 イエスの時代、ユダヤ人は律法という言葉に縛られていた。それからの解放、それは愛によって全ての罪は赦されているということである。
安息日は人が自由に動き回る日だ。それは神の愛によって保証されている。
礼拝とは、そのことを再確認することである。
一週間の労働の後、真の人間としての自由に生きる生命を回復する。

 伊達政宗は、「義に過ぐれば固くなる。」と常訓に書いている。それは正しさだけでは、窮屈であるということだろう。私たちは自分が正しい生き方をしていると自負しがちである。しかし、それに固執すると自由を失っていくのである。

 私たちは礼拝を通して自分の罪に目覚め、新しい生命をイエスの生き方の中に見出していくことが求められている。私も残りの人生を自由に生きることを願って聖書を読むのである。
そこには、いつも聖霊が働いてくれていると信じながら・・・。

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