2021年5月30日 聖書:マタイによる福音書11章28~30節「わたしのもとに来なさい」鶴尾計介兄 


 徳川家康の遺訓と言われている言葉に「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」というものがあります。家康は小さな大名である松平家に生まれ、3歳の時母が離縁されその後織田家今川家の人質として成人しました。戦が起こり自分の父が敵方に味方すれば自分は殺される、という不安と恐怖の中で幼少期を過ごしました。その後も戦に次ぐ戦を戦い抜いて、正に「重荷を負うて」歩んだ一生だったと思われます。
 わたしたちも多かれ少なかれ心に悩みや悲しみ・重荷を抱えて生きています。そのような時主は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とわたしたちを招いてくださっています。
 皆さんは「聖霊」をどのようにとらえているでしょうか。服部先生だったか講壇交換で来られた先生だったか「聖霊はすべての人に臨んでいます。神は聖霊の働きによってわたしたちが何に悩み、何に苦しみ、何を必要としているかを、祈る前からすでにご存じです。」というようなことを話されました。そのときぼくは、聖霊をイメージするなら電波のようなものではないだろうか、と思いました。電波はすべての人に臨んでいます。その証拠に今、目の前でスマホやラジオのスイッチを入れれば受信できます。また電波は体の中を通り抜けることもできます。電波には送り手の思いやメッセージが込められています。一方神様のはたらきである聖霊には、神様の思いやメッセージが込められています。電波を受信するには携帯やラジオなどの受信機器が必要です。では聖霊を受け取るには何が必要でしょうか。それは私たちの罪の贖いのために十字架の上で死んで下さり、そして3日目に甦ってくださったその復活のイエスを、わたしの主であると心の中に受け入れる、そのことによって私たちは聖霊を感じ、受け取ることが出来るのではないでしょうか。
 「人間が発明した電波と神の聖なる聖霊を、同じようなイメージでとらえるのは冒涜だ」と言われれば、「ごめんなさい」というしかありませんが、そもそも電波・電気・X線・MRI これらは人間が発明したのでしょうか。科学の法則・物理の法則、すべて神様がおつくりになったものではないでしょうか。だとすれば始めから電気の作り方や電波の作り方や、こうやればテレビができるという、そういうものはすでに神様がお作りになっていて、人間は勉強と研究を重ねてその作り方を「発見」したにすぎないのではないかと思うのです。.
そう考えて僕は、聖霊は電波のようなものかなとイメージとしてそのようにとらえています。ただ決定的に違うのは、電波は送りての意図 メッセージが込められているのですが、
それは不完全な人間が送った不完全なメッセージです。しかし、聖霊は全知全能の完全なる神の働きですからそこに込められている働きやメッセージは、完全なものです。これは決定的に違います。また電波というものは目には見えませんが物理的な存在です。しかし聖霊は物理的に存在してるのではなくて、霊的に存在しています。そこは電波と聖霊は全く違うと思うのです。その聖霊がわたしたちに臨んでくれて、「わたしのもとに来なさい」と招いてくださっています。そしてわたしたちが何に苦しんでいるか、何を必要としているか、訴える前から神様はご存じで、それに対して神様は応えて下さるのです。
 
アメリカの女性が書いた「あしあと」という詩を読ませていただきたいと思います
「あしあと」
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」
 
もちろんこれは聖書の言葉ではありません。一人の女性の考え イメージですが、しかし私たちの罪をあがなうために苦しみにあわれ十字架の上で死んで下さる、そのように優しいイエスですから、この詩の通りではなかろうかと思うのです
それぞれにわたしたちは、苦しいこと悲しいこと、色々抱えながら生きています。またこれから先どんな苦難・試練が襲ってくるかわかりません。しかし「重荷を負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いて下さり、この苦しさを訴える前に、もうすでに感じて下さっている主がともに横を歩いて下さる、そして、もうこれ以上歩けない、もうダメだと思ったとき時は、背負って下さるのです。これから先どうなるかわからない人生、しかしどんな時も主は見捨てずにともに歩いて下さる。そしてその行き着く先に待っているのは、神の国に迎えられて、神と共に生きる新しい命が与えられる、そういう希望が私たちには与えられているわけです。
しかしこれは神を信じている人だけに与えられているものではないと思うのです。十字架の死によってすべての人間の罪が許されていますから、今、神を信じてない人にも等しく与えられている恵み 希望だと思います。ただ神を信じてない人は、心の中にイエスを受け入れてないので せっかくの聖霊の働き、聖霊の恵みが臨んでいるのに、それを感じ取ることが出来ないのです。そして待っているのは、死という深い絶望、そう思いながら生活している、これが神を知らない人の生活ではないだろうかと、思うのです。
神を知っているわたしたちは、神が常に一緒に歩いてくださり、時には背負ってくださり、そして人生の最後には神と共に生きる新たな命が与えられる、そういう大きな希望が与えられているのです。
今がどんなに苦しくとも、またこれからどんな苦しみが来ようとも、わたしたちはこのような希望が神によって与えられていることを覚えて、これから生きていきたいと思います

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