2021年6月6日 聖書:ローマ人への手紙7章14~25節「Say grace(感謝)」世良田静江牧師


本日の聖書箇所は、実は内在する罪の問題という共同訳聖書では小見出しがついています。それなのに説教のテーマは「Say grace」一言で言うならば食前の感謝の祈りをグレースと言うのです。私共の心の内にある罪と食前の祈りとどう関係性があるのかと問われたら、どう答えようかと考えつつ、悩みつつ付けたテーマです。グレースはギリシャ語のカリオスが転じてグレース神の恵み、アメージング・グレース、奇跡の恵みとでも言うのでしょう。アメリカの国家、グレートアメリカよりこのアメージング・グレースが様々な場面で歌われます。パウロは人間とは何という罪深さを抱えているのか良くわかっていて、自分はかつてキリストを信じる者を弾圧する側にいたこと、その自分の行いを深く思えば神の恵み、恩寵が一つの柱であったのでしょう。私は何というみじめな人間なのだろう、この苦悩にみちた自分が神の恵、恩寵をもって平安になれたのです。ひとり子を十字架の犠牲にしてまでも、神は人間に希望をいだいておられるのです。このことを救済史とよびます。人間の絶望と神の希望によって織りなされているのです。感謝の感とは大きな刺激の前に動くことを表しますが、深い心「Think」と言います。「denken(独)」「danken(感謝する)」となるのです。「Holy communion(聖餐)」も「Eucharist(聖餐)」も感謝です。何を感謝するか、神が絶望的な人間に最後まで希望をもたれる、ここに神の愛と人間の感謝がつながるのです。神がこのみじめな私を捨てない、その恵を思う時、私の心に「感謝」が声を出しきるばかりに出てくるのです。その感謝は教会の一致としている聖餐による共同体の交わりです。深い心をもって神の恩寵に人間は感謝をいただく、浅い心は浅い交わりしかできません。神との交わりは深い心を求めます。教会の中がグレースで充たされますように祈ります。

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