2021年6月13日 聖書: 創世記 32章23~33節 「人の弱さの中で発揮される神の力」 川本良明牧師


●イエス・キリストが来られる前の旧約聖書が伝えている信仰の先輩ヤコブは、創世記25章に誕生物語があり、32章で神からイスラエルという名を授けられ、飢饉のため一族挙げてエジプトに行き、創世記49章で死んでいます。創世記全50章の後半が関係しているいう大変な人物です。しかしその波乱の生涯は、自ら播いた種を刈り取らねばならない苦悩の多い人でもありました。
●当時は、長男が一族の全財産も神の祝福も受け継ぐ絶対の掟がありました。しかし双子の兄弟だったヤコブは、「兄エサウとは僅かの時間差で生まれたのに、なぜ自分は財産も祝福もあずかれないのか」と不満でした。その不満は彼を、欲張りで、わがままで、意地悪な性格にしていき、やがて大変な事件を引き起こしました。
 父親の目が悪くなったことをいいことに、兄になりすまして、兄が受け継ぐものを奪い取ったのです。エサウが激怒し、殺す機会を狙っているのを知ったヤコブは、母の実家があるハランに逃れていきました。ところがベテルという所で石を枕に寝ていると、神が現れ、<わたしは、あなたの祖父アブラハムの神、父イサクの神、主である。わたしは、あなたを祝福し、子孫は海の砂のように多くなる。わたしは、いつもあなたと共にあり、あなたは無事にこの地に戻って来る>と告げられました。眠りから覚めると彼は、「ここはベテル(神の家)だ。主よ、私は必ず10分の1を献げます」と誓い、孤独と不安から立ち直って、喜びと希望に満ちて旅を続け、無事に九百キロ以上離れた目的地に着いたのでした。
●ところがハランでは、強欲な伯父のラバンの下で働き、結婚にだまされるなど、じつに20年間、苦難の毎日でありました。しかし神が共にあることを信じて、しっかりと神につながっていた彼は、<苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を、練達は希望を生む>(ローマ5:3~4)ように、一切を神にゆだねて生きる者へと変えられていき、一族の長にふさわしい風格を備えた人間に成長していきました。
 その彼にふたたび神が現れて、<わたしはベテルの神である。わたしはラバンのあなたに対する仕打ちは、すべて分かっている。さあ、今すぐ故郷に帰りなさい>と告げました(31:13)。
●ヤコブは莫大な財産と大家族を引き連れて故郷に向かいました。ところが故郷が近づくにつれて、復讐に燃える兄の姿が目に浮かんできました。彼は使いを送り、兄を主人、自分は兄の僕であることを示して、何とか和解の道を探りました。しかし兄が四百人の供を連れて迎えに来ると聞くと、彼は恐怖に突き落とされました。彼は祈りました。「あなたは私に生まれ故郷に帰りなさいと言われました。しかし兄が恐ろしいのです。私たちを皆殺しにするかも知れません。あなたは海辺の砂のように子孫を多くすると言われました」(32:10~13)。祈った後、彼は率直に自分の非を認め、赦しを乞うために、和解のための贈物を惜しみなく準備しました。しかし、祈りも贈物も、何の効果もなく、恐怖は強くなるばかりでした。
●この時の彼の様子を語っているのが、初めにお読みした32:23~25節です。<その夜、ヤコブは起きて、…腿の関節がはずれた>。ここでヤコブは、兄と和解すること以上に、もっと大切なことがあるのではないか、これからの人生を送っていく上で、最も肝心なことがあるのではないか、ということに気がついたのです。
 リンゴのたとえを覚えていますか。皮を意識、実を潜在意識とすると、真ん中の種は命、存在そのものです。人は誕生してすぐに自我が生まれ、名前を呼ぶと振り向きます。この第1の自我が、存在そのもの、3つ子の魂の時期です。それを過ぎると2つ目の自我が誕生します。自分が自分を見つめ、自分と他者を比べるようになります。日記をつけるのも自分を客観的に見るからです。この時期にヤコブは、自分が選ばれないで兄が選ばれていることを知り、その不満が兄への軽蔑となり、兄の祝福を奪うまでになったのです。だから仮に兄と和解できても不安がなくならない原因は、この潜在意識であるわけで、これは兄のことだけではなく、これがあるかぎり、人生において必要な本物の平安からは程遠いことに気がついたのです。
●それでヤコブは、「どんな状況になっても、何があっても平安である私にしてください」と願って、神の使いと格闘したのです。すると神の使いはヤコブの股関節を打ちました。しかしヤコブは、痛みをこらえながらもしがみついて、死に物狂いで、「祝福を! 祝福を!」と言いました。そこで御使いが、<お前の名は何というのか>と言うと、<ヤコブです>と答えました。この言葉で彼は、「そうです。その名の通り、私は、人を押しのけて自分のものにする人生を積み重ねてきたし、今もそのように生きている人間です」と、ありのままに自分をさらけ出しました。そこで御使いは「お前の名は、もうヤコブではなく、イスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」と告げました。
●植木等の「分かっちゃいるけどやめられねぇ」(スーダラ節)を思い出しますが、意識の上では、もっと素直になりたい、もっと計画的に物事を運びたい、もっと優しくと思うのですが、そのようにならない、内なる何かがあって、それが外に現れて兄や父をだましたのです。この内にうごめく何かを信仰的には罪と言ったり、哲学や心理学では生育歴などの言葉で表現できますが、いずれにしてもヤコブは自分の罪に気がついて、罪からの解放を求めて神にしがみついた、つまり夜明けまで祈ったのです。そして人生の大きな転機を神からいただいたのでした。
●すると恐怖は雲のように消え去って、ヤコブは言い知れない平和に満たされて朝を迎えました。「太陽は彼の上に昇った」とはじつに印象的です。今や古い自分から神にある新しい人間に変えられた復活の朝でした。そしてその日、兄と再会する場面はじつに感動的で、<エサウは走ってきてヤコブを迎え、抱きしめ、首を抱えて口づけし、共に泣いた>(33:4)のでした。さらに用意していた贈物も本当の和解をもたらすために生かされました。エサウがヤコブに「来るときに出会ったあれは何か」と尋ねると「あれはあなた様のものです」と言うので、エサウは断るのですが、ヤコブの強い勧めで受け取りました。このとき本当の和解が起こったと思うわけです。このときヤコブは、股関節が痛くて足を引きずっていましたが、この状況においてこそ神の力が働き、彼は本当の平安を得て兄と和解をすることができました。まさに「人の弱さの中で神の力は発揮される」(説教題)のです。
●ところでヤコブは自分の罪に気づき、罪からの解放を求めて祈り、本当の平安を得たのですが、彼はなぜ罪に気づいたのでしょうか。第二の自我が生まれたとき、罪は人間に働きかけて、悪い思いを起こさせますが、誰も罪を自覚することはありません。しかしすべての人は罪に支配されています。<欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む>(ヤコブ1:15)とあります。死は現実に起こります。誰ひとり死から逃れることはできません。死は罪が熟した実です。死が現実にあることが、すでに私たちが罪のもとにあることの証拠です。例外なく死ぬということは、罪を自覚しようとすまいと例外なく罪のもとにあるということです。
●イエス・キリストは、この罪を滅ぼすために来られました。そして十字架の死によって死を滅ぼしたことで、私たちの罪をも滅ぼして、私たちを贖って下さいました。つまり私たちの代わりに罪を裁かれてくださって、私たちに永遠の命を約束して下さったのです。このことを私たちに自覚させ、知らせるために、神は聖霊を私たちに注がれます。ヤコブが自分の罪に気づいたのは、じつは聖霊の働きだったのです。聖霊は、罪を気づかせると同時に罪の赦しと新しいいのち、復活のいのちを与えてくださいます。罪の自覚も新しいいのちに生かされるのも聖霊の働きであって、人はどちらも生み出すことも起こすこともできません。だから聖書は、罪を罪として自覚するのは神の恵みであると語っているのです。
●ヤコブに起こったことは、まさに私たちに起こっていることです。彼に与えられた平安あるいは平和は、個人だけでなく国家の間でも当てはまるものです。G7は欲と権力の集まりです。政治家においても神からの本当の平安また平和を与えられた人が一人いれば世界は変わると思うのです。<なぜなら、福音は神の力である>と聖書は語っているからです(ローマ1:16)。だから国家のレベルでなくても、家族、職場、学校などでの様々な人間関係においても、この力ある命の言葉において、聖霊は働かれます。ヤコブは長い人生の中で、成長していきましたが、私たちもまた神にしがみついて、祈りながら聖霊を求めるとき、成長していくことが約束されていることを信じ、心から感謝して、この一週間を過ごしたいと思います。

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