2021年7月4日 聖書:ローマの信徒への手紙8章1~12節「キリストによって生きる」世良田静江牧師

ローマ人への手紙7章の終わりの「この様にしてわたし自身は心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」という言葉は7章から8章へと移るのですが、こんなに罪を問われると少々ローマ書を読む心が重くなってきます。律法を遵守して来たユダヤ教の人々は律法を守り、小さな箱を額にまでつけて律法を守ろうとし、時には少しの誤にも犠牲を捧げ、罪の赦を乞うことをしてきました。犠牲の捧げ物を焼く香りというか匂いでエルサレムの町は一杯であったと言われます。人間の持つどうしようもない心の問題を人が決めた律法で縛ることなど出来ない。その喘ぐ人間に神は御子を送ってくださったのだとパウロは言うのです。本日の資料は12節までですが、14節に神の霊によって尊びかける者はみな神の子なのだとパウロは言います。ですから15節に至っては神の子とされた私たちはアッパ父よと呼ぶのです。これを直訳するならアラム語のアッパはお父さん、そんな上品な言葉ではなく、父ちゃんと呼ぶ呼び方なのです。17節に至っては神の相続人でキリストと共に苦しむなら共にその栄光をも受けると結ばれています。特に26節~28節を読みますと、神が私たちにのぞんでいることがはっきりとされます。万事が益となるように共に働くことを私たちは知っていますと言うのです。この世にあってキリストと霊を持つということは浮きボールを持って水の中に潜るようなものでしょう。ボールを持って水の中に深く沈めば沈む程、ボールは抑えきれない程の力で上へ上へと上がろうとします。この世の中にいるということは、このようなことなのです。深い水底から真っ直ぐに引き上げ、この世のいろいろな圧迫に押さえつけられるとかえって勇気が出てくるのです。キリストの霊によって生きる人間は神の霊的世界にまで浮上する。これが御霊の法則です。キリストによって生かされ、支えられて生かされていることを深く心におぼえましょう。

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