2021年7月25日 聖書: ローマの信徒への手紙 3章21~24節 「救いの確信」 川本良明牧師

●3章23~24節を、①人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている、②キリスト・イエスが贖いの業をされた、③神の恵みにより、無償で義とされる、の3つの点から読んで、「救いの確信」を考えたいと思います。
❶でパウロは、人類をユダヤ人と異邦人に区別した上で、ユダヤ人も異邦人も、人は皆、罪を犯していると語ります。
◎まずユダヤ人について、神は彼らに十戒その他の戒めを律法として授け、ユダヤ人の1人としてやがて来られる神の子イエス・キリストを迎えるという特別な使命を与えました。彼らにとって罪は、律法を破ることでした。けれどもその彼らこそ律法を破りつづけた民族であって、その極めつけが神の子を殺すことでした。そこでパウロは、ローマ2:1~3:20でユダヤ人の罪を徹底的に告発しました。
◎つぎに異邦人について、たとえ律法を持たないでも罪の告発から免れることはできない、なぜなら死という現実を避けることができないからです。罪についてはいろんな意見があるとしても、人は皆例外なく死を迎えます。この死の現実を仏教は、四苦八苦で有名な「苦」の現れであると語ります。しかし聖書は、<欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生む>(ヤコブ1:15)とあるように、死は罪の結果であると言い、パウロも、<1人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ>(ローマ5:12)と語っています。死は罪がもたらす最高の掟なのです。そこでパウロは、ローマ1:18~32で異邦人の罪を徹底的に告発しました。
◎このようにユダヤ人も異邦人も罪の結果、死を迎えるのですが、その死をもたらす罪は、神を憎み、神に反抗する根源的なもので、私たちには見えないし、滅ぼすことも逃れることもできません。しかし確実に私たちを支配し、死の現実を招いています、この根源的な罪から全人類を救い出すために神は、ユダヤ人を選び、律法を授けられたのです。しかし彼らは、律法をゆがめ、無力化しながら、それを守っていると誇っていました。たとえば安息日の掟があります。この日は、神を讃え、礼拝を守り、祈り、悔い改め、隣人を愛すること以外は、「何の業もしてはならない」という掟です。ところが39か条の禁止命令を作り、安息日は何キロ以上歩いてはならないとし、それを破ると罪としてきびしくとがめたのです。
◎これに対するイエスのことを、たとえばマルコ3:1~6は伝えています。安息日に会堂で、人々に、<律法が許しているのは、善行か、悪行か。命を救うことか、殺すことか>と言われ、彼らのかたくなな心を怒り、悲しみ、手の萎えた人の手を癒やされます。パウロも、<人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている>と語っています。人は皆、神に造られていて、すばらしい存在であり、そのために律法があるのに、罪のために本来の姿を台無しにしているというのです。だから神が、反抗する人間を容赦なく告発するために律法を授けたのは、まさに人間に対する神の憐れみであり、恵みであるということができます。そこで、
❸の「神の恵みにより、無償で義とされる」ですが、「義とされる」とは、罪が滅ぼされ、もはや罪を問われず、神に造られた正常な人間にされることです。しかも何も求められず、無償で義とされるというのです。
◎それでは神は、罪を見逃したり、心変わりして情状酌量したのでしょうか。断じてそうではありません。21節でパウロは、<ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました>と語っています。「神の義が示される」とは、神は聖なるお方で、罪を微塵も赦さず、罪に対しては怒って徹底的に断罪し、容赦ない裁きでその聖さと正義を示されるということです。だから律法は神の義に基づいています。パウロが、1:18~3:20にかけてユダヤ人と異邦人の罪を徹底的に告発したのは、この律法の物差しによってでした。ところが今や、律法とは関係なく、神の義が示されたというのです。そして22節で、<すなわち、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられる神の義>つまりイエス・キリストを信じることで義とされるというのです。それではなぜイエス・キリストを信じる者は義とされるのでしょうか。その理由が、
❷の「ただキリスト・イエスによる贖いの業」にあります。これは明らかにイエス・キリストの十字架の死を指しています。本来ならば、罪を犯して神の栄光を受けられなくなり、あるべき姿を台無しにしてしまっている私たちこそ、神に裁かれて永遠に捨てられなければならないのに、神は、私たちの代わりに愛する神の子イエス・キリストを十字架にかけさせ、その怒りの炎を彼の上に容赦なく燃え上がらせたのです。その結果私たちは、根源的な罪から解放され、もはやその罪を問われず、むしろ罪のない神の子とされています。これに対して私たちにできることは、ただ一つ、この私のために、イエス・キリストが成し遂げてくださった根源的な罪の裁きと罪の赦しの業を素直に受け入れて、ただ感謝して喜ぶことです。

●しかし、神が身を低くされ、命を捨てて私たちの罪を贖い、私たちを死から救い出して、永遠の命を約束されたことは、あくまでも神によって起こされた客観的な出来事です。このことを主体的に私たちのものにして下さるのも神さまです。聖霊なる神として、私たちの内に宿り、主が私のために十字架にかかり、その死によって私の罪を贖い、罪を赦してくださったと信じることができるのです。その信仰によって、私のすべての罪はもはや決して問われないのです。この「もはや決して」とは、単に過ぎ去ったすべての罪と思い煩いだけでなく、これから招くであろうすべての罪と思い煩いも排除されるということです。

●「救いの確信」についてパウロは、エフェソ3:12で、<私たちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます>と語っています。
◎預言者イザヤは、じつに力強く美しい言葉を語っています。<雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私のもとには戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす>(55:10~11)。この「神の言葉」こそ肉となって私たちの間に来られたイエス・キリストです。そしてこの方は、私たちの罪を贖い、罪を赦されます。そして罪の赦しこそ私たちの救いなのです。
◎私たちの根源的な罪は滅ぼされており、根は断ち切られています。それでも見える罪は相変わらず私たちを襲ってきます。しかし、聖霊を信じて、「主よ、私は救いの確信がありません。しかし、あなたはキリストを信じる者は救われると言われます。私の罪を贖ったことを信じます」と祈るとき、自分の心理状態や状況がどうあろうと、真理の言葉は実現されます。<神の言葉はむなしくは戻らないのです>。1+1=3ではなく、1+1=2と信じて行なえば、物事は整えられます。最初は実感がわかないけども神の言葉、真理の言葉を信じて、祈り、くり返していると、必ず自分の内に聖霊が働いて、神の言葉を実現してくださいます。
◎「罪の赦し」は、ちょうど自分の人生をすべて書いている図面があり、その全体を太い一本の線が引かれ、抹殺されています。その人生は罪の塊です。そして信仰によってキリストに結ばれた新しい人生が始まっているということです。あるいは罪の人生にもかかわらず聖霊の証しと洗礼の証しが与えられているともいえます。ルターが大変な試煉に遭って、信仰が揺らいでいたとき、机に、「私ハ洗礼ヲ受ケテイル」と書いたことは有名です。受洗した事実を生涯にわたって考えることは、洗礼にふさわしいことです。聖霊の証しや洗礼の証しを、いつも同じように活き活きと感じるかどうかは、まったく無関係に、それらは私たちに食い入ってきます。

●罪の贖い、救いの確信を与えられているのは、決して自分のためではなく他者のためです。世の中にはいろんな慰めがあり、また様々なすばらしいことを行なっている人を知り、勇気づけられ、励まされ、知恵を与えられます。けれどもこの世は、またすべての人は皆、根源的な罪の中にあり、神の栄光を失っていて、すべては相対的で絶対的ではなく、一時的で永遠ではなく、いつも揺らいでいます。
◎しかしそのような現実にあって、私たちは教会に来て、御言葉を聞き、イエス・キリストに出会って、人にとって本当の慰めとは何かを知っています。すべての人は皆、神の栄光を受けられないでいることは、クリスチャンであろうとなかろうと、例外はないし、死の現実の前に平等です。けれどもこの私たちが本当に慰められるのは、イエス・キリストに出会うことであり、そのわざを知り、このお方に信頼することであることを、私たちは教会に来て、世の人たちに先んじて知っています。また私たちは、世の人たちが求めているのが本当の希望であることも知っています。ところが世の中のいろんなことを気にするために、それがいつの間にかぼやけてしまっています。しかし私たちキリスト者は、罪の赦しに始まって、罪赦されていることを本当に自分のものとしているとき、他者に対して、おのずから奉仕していることになるのではないでしょうか。そのことを感謝と喜びをもって信じて一週間を歩みたいと思います。

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