2021年8月8日 聖書:フィリピ 3章20~21節 「希望の確信」  川本明郎牧師

●最近、あるクリスチャンから、「コロナ・ウィルスも神が創造されたものだから、今の世界的なコロナ禍にも神の意志が働いていると思う。またキリストの再臨のときは、人々は善人と悪人に分けられて裁かれるが、自分はキリストのもとに行くことを信じている」と語るのを聞きました。最後の審判の時にキリストが善人を天国に上げ、悪人を地獄に落とすというのです。神の恵みを恐ろしい呪いに変えてしまっている典型的な例を目の当たりにして、いったい何を根拠にしているのだろうかと思いました。そして思い当たったのが、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを裁き給わん」という使徒信条の言葉であり、聖書では第二コリント5章10節の言葉でした。そこで使徒信条にふれたいと思います。
●使徒信条は3項から成っていて、第1項には天地の造り主、全能の父なる神が書かれ、第3項には聖霊なる神と教会のことが書かれ、どちらも短いですが、第2項はかなり長く、救い主イエス・キリストのことが書かれています。
◎もともと信条は、初めは<主イエス・キリスト>の3文字だけで、洗礼の際の信仰告白の言葉でした。それが2世紀半ばごろには拡大して、ローマ信条となり、これをもとにして2世紀後半に今の使徒信条になりました。第2項を細かく見ますと、「聖霊によりて宿り」から「天に昇り」までは完了形で書かれ、「全能の父なる神の右に座したまへり」は現在形、最後の「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを裁きたまはん」は未来形で書かれています。
◎第2項の前半が完了形であるのは、イエス・キリストが父なる神から託された使命を完全に果たして天に昇ったことを示しています。ヨハネ福音書も、<イエスは、「成し遂げられた」と言って息を引き取られた>と伝えています。つまり、根源的な罪によって呪われている私たちに代わって、十字架において神に裁かれ、私たちの罪を贖い、罪の結果である死をも滅ぼして息を引き取り、墓に葬られて、その使命を果たし終えると、死人の中から甦えり、父のもとに帰ったのでした。
◎昇天したキリストが再び来られることを再臨とよびます。キリストの誕生・苦難と死・復活・昇天という過去の出来事とキリストの再臨という未来の出来事にはさまれた今の時間が、私たちが生きている現在です。それでは父なる神の右に座しているキリストは、地上の人間とまったく疎遠になってしまったのでしょうか。そうではありません。むしろ地上において聖霊なる神として活動しておられるのです。昇天前にイエスが弟子たちに、<私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる>(マタイ28:20)と語っているのは、聖霊として共にいるということです。また使徒言行録1~2章が伝えているように、イエス御自身が聖霊として弟子たちに降って、十字架の死と復活において成し遂げられた一回限りの業を全世界に宣べ伝えるようにと、教会を建て、私たちを呼び集め、整え、私たちと共にあって導いておられるのです。以上のことから、今日の聖書の個所を、
●①私たちの本国は天にある、②そこから主イエス・キリストが救い主として来られる、③キリストが、私たちの卑しい体を御自分の栄光ある体に変えてくださる、の3点で考えることができます。
❷は、天から「主イエス・キリストが救い主として来られる」と語っていますが、彼はすでに救い主として父なる神の御心を成し遂げられたのです。なぜ「救い主として来られる」と言うのでしょうか。これこそ使徒信条の<かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁く>ことに関係します。
◎生ける者と死ねる者とは私たちのことです。私たちは人を対立的に見ます。正しい人と正しくない人、優れた人と劣っている人、強い人と弱い人、善人と悪人などに分けて、前者を生きている人、後者を死んだも同然の人として見ています。しかしイエスは、<あなたがたの天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる>と言われています(マタイ5:45)。そして神は、愛する御子の死をもって、区別なくすべての人の裁きを成し遂げ、罪と死に勝利して、復活されました。戦いは終わったのですが、その知らせが届いていないところでは、なお戦闘が続いて悲惨な現実をもたらしています。しかしキリストの再臨のとき、神はキリストが成し遂げられたことを完成します。罪と死を滅ぼしたあの裁きを完成するわけですから、生ける者の裁きも死ねる者の裁きも、想像を絶するすばらしい「究極的な裁き」であることは確実です。その究極の裁きについて、
❸は、<万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、キリストの栄光ある体と同じ姿に変えてくださる>と語っています。パウロは復活のイエスに出会いました。ペテロとヨハネとヤコブの3人は、山でイエスの栄光の体を示されました。さらに11人の弟子たちは、復活したイエスと40日にわたって飲食を共にしました。この復活の出来事は、弟子たちの幻想でも内面的、精神的な期待感や願望や想像力が作り出したものでもありません。キリストに反対し、十字架に殺した人々さえその事実を認めています。まして近代科学思想に基づいて、復活の出来事や体の復活を否定したり、神話物語にすることは不可能です。
◎ヨハネ20章19節以下にトマス物語が書かれています。イエスが復活して弟子たちに現われたとき、その場にいなかったトマスは、<あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、…私は信じない>と言いました。8日後、ふたたび現れたイエスがトマスに、<私の手を見なさい。あなたの手を私の脇腹に入れなさい>と迫ると、<私の主、私の神よ>と答えるトマスにイエスは、<私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである>と言いました。この最後の言葉に注目して、「イエスは、科学的に証明できなければ信じないトマスの不信仰をいさめているのだ」と、近代において教会は解釈してきました。
◎しかし彼は近代人ではなく古代人です。彼について聖書の他の個所には、イエスが死んだラザロの所に行くと聞いたとき、<私たちも行って、一緒に死のう>と彼は語っています(ヨハネ11:16)。またイエスが、<私がどこへ行くのか、あなたがたは知っている>と言ったとき、<主よ、どこへ行かれるのですか>と切実に迫っています(ヨハネ14:5)。彼はペトロに劣らずイエスに命を賭けている人物です。イエスは弟子たちに、自分は亡霊ではない、肉体と精神を持った人間だ、と身をもって示されました。しかしその場にいなかったトマスは、体を持った人間イエスを見なければ信じないと一生懸命に主張しました。この彼をイエスは積極的に評価して、ご自分の体を見せ、<自分を直接見ないでも信じる人は幸いだ>と勧めたのです。後年ペトロも、<あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています>(Ⅰペトロ1:8)と、イエスを見ていないけれども使徒たちの証言を信じている人は幸いだと語っています。この信仰に立って、パウロも、
❶で、<私たちの本国は天にある>と語っているのです。パウロはペテロたちとちがって生前のイエスを知りません。そして彼が復活のイエスに出会ったのはダマスコでただ1度だけです。その後の彼の道は苦難の連続でしたが、彼ほどイエス・キリストの愛を感じた人はいないと思います。なぜなら、熱心なユダヤ教徒として、敵意をむき出しにして教会を迫害していた彼が、イエスから<なぜあなたは私を苦しめるのか>と言われたとき、敵である自分を愛し、罪を贖い、死をも滅ぼして下さったことを知りました。<私たちの本国は天にある>という言葉からは、そこで待っておられるイエスに1日も早く逢いたいという思いが伝わってきます。しかし彼は、地上にある今をおろそかにするのでも今の苦しみから逃れるのでもなく、むしろ今の苦しみを積極的に捉えています。<私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです>(フィリピ3:10~11)と彼は語っています。「死者の中からの復活に達する」とは、キリストの栄光に輝く体に変えられることです。パウロにとって苦しみは、逃れたいのではなく、むしろキリストとのつながりを強めていくこととして、喜びに満ちあふれていることが分かります。
◎私たちには、「キリストは私のために死んで下さった。私たちの罪を贖い、罪の結果としての死をも滅ぼして下さったことを信じている。それなのになぜ私たちは死を迎えるのだろうか」という疑問があります。これは不信仰の言葉ではなく真実な問いです。それに対して世々の教会は、またキリスト者たちは、次のような答えを得てきました。「私どもの死は、自分の罪の償いではなく、罪の消滅と永遠の命の入口なのです」(ハイデルベルク信仰問答、問42)。私たちは皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって、例外なく死を迎えます。しかしイエス・キリストによって裁きは終わり、罪の贖いは成し遂げられた。だから私たちの死は、自分の罪を償うことではなく、罪の消滅と永遠の命の入り口であるというのです。この答えは、地上にあるキリスト者としての生きる基準ではないでしょうか。
◎過去に犯した無数の罪は、キリストによって贖われ、帳消しになっていますが、なお私たちは、相変わらず罪に襲われて、この卑しい体は罪のガラクタを積み重ねています。そしてその罪によって様々な苦しみを受けながら死に向かっています。しかし、苦しみが罪の消滅に向かっているということは、罪を犯して苦しむ私たちが、キリストの苦しみにあずかって、キリストと共に苦しむ者に変えられていき、最終的に死を迎えるとき、罪は消滅し、キリストとのつながりが完全になるということなのです。「馬鹿は死ななきゃ治らない」という言葉がありますが、じつに死が罪の消滅であるとは、私たちにとって希望ではないでしょうか。しかしそれ以上に私たちは、キリストの栄光に輝く体を着せられて、新しい永遠の命に生きる者とされるという、じつに確かな、ゆるぎない希望が与えられています。ですから私たちは、「私たちの本国は天にある」ということを信じて、パウロと共に喜び、この一週間を共に歩みたいと思います。

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