2021年8月22日 聖書:ルカによる福音書15章1~10節「人を捜し求める神」茶屋明郎牧師

当時の宗教指導者であった律法学者たちが、先生らしい先生、牧師らしい牧師と自認していたのと違って、イエスは、先生らしくないし、牧師らしくないと評価され、非難されていました。
 その評価の基準は、イエスが徴税人や罪人と言われている人たちが大好きであり、寄り添い、共に生き、一緒に食事などもしていたからでありました。
 このことを非難された時、イエスは、反論を試みられます。それは、迷子になった一匹の羊や亡くした銀貨一枚を百匹の中の一匹であっても、10枚の中の一枚であっても、見つかるまで、必死になって「どこにいるのか」と声を懸けながら、捜し求め、見つかったら心から喜ぶというたとえ話によってでした。
 イエスは、神は、羊飼いや銀貨の持ち主のように、人間を捜し求めるおられる方である。だから私も罪人と言われている人たちを受け入れ、寄り添い、共に生きることを大事にしていると言われます。
神が人間を見つかるまで探し求めておられるのは、人間はご自分がお造りになった存在であり、ご自分のものであり、皆同じ人間であり、皆なくてならない、欠けてはならない、大切な、かけがえのない存在であると考えているからであるとイエスは教えておられます。
 私たちが神から離れ、神の愛や自分の尊厳さが解らなくなり、孤独を感じ、自暴自棄になり、愛の心を失っているならば、赦す思いよりも怒りや憎しみの思いが勝っているならば、謙遜なこころを忘れ、傲慢になっているならば、他者に関心がなく、特に弱い立場に置かれている人たちを差別したり、偏見を持っているならば、自分ことしか考えられない自分中心の人間になっているならば、神は私たちにも、神に背いたアダムに懸けたように、「そこは本来あなたがいるところではない、そこを出なさい、捕らわれている思いを捨てて、自由になって、私のところに、私の愛の中にしっかりと留まっていなさい。そこがあなたが心から安心でき、癒され、元気になり、自分らしくなれる本来いるべき場所である」という思いを込めて、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけているに違いありません。

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