2021年8月29日 聖書:ローマの信徒への手紙4章5~8節「ただ主の憐れみによる」岩野紀子姉

私は30歳になるまで、キリスト教は外国の宗教だから、自分には関係ないと思って過ごしていました。イエス様の話は本当に知らなくて、家畜小屋で生まれた経験を持つ、大昔の立派な外人という認識しかありませんでした。特別クリスチャンの知り合いもないし、教会においでとか誘われたことも一度もなくて、家のすぐ近所に長年教会が建っていたのですが、それもクリスチャンになるまで全く気付きもしなかった、そのような人生でした。

でも、いつの間にか、たぐり寄せられるようにクリスチャンになっていました。今日は皆さんにお話しするのは初めてなので、このような私がクリスチャンになるまで、神様がどのように関わってくださったのかを、証ししたいと思います。

私はその時、長者原に住んでて、直方まで1時間の電車通勤をしていました。それで本でも読もうと思って、昔、母が三浦綾子さんの氷点という本がとても良かったと言ってるのをふと思い出して本好きの人に尋ねたら、「塩狩峠」なら持っていると言うので、借りて読みました。塩狩峠を読んで、神様をどう思ったのかというのは、実は全く覚えていません。最後はすごく泣いたということ以外、思い出せません。でもそれをきっかけに、三浦綾子さんの本を電車の中で、片っぱしから読むようになりました。

多分、三浦綾子さんの本を読む中で、神様の存在が少しずつ大きくなっていったと思います。 中でも一番、私をキリストに導いたのはやはり、「道ありき」という三浦さんご本人の、救われるまでの証しの本だったと思います。

気がついたら、私はいつの間にか自然とイエス様を求めていました。

ところで、三浦綾子さんの本ばかり読んでいても、その本の全てが、キリストの話というわけではないので、だんだんもの足りなくなっていきます。もっとピンポイントで、イエス様のことを読みたい、という思いが強くなっていきました。

普通の書店を巡って「この一冊で聖書の全てがわかる」とかいう本も購入しましたが、私の求めているものとはかけ離れていました。

そんな中、三浦さんの本の中で「キリスト教書店」というものがあることを知りました。ここに行けば、キリストに関する本が読める!と思って嬉しかったですけど。まだネットもない時代だったので、簡単に調べようがありません。
・・教会に行って、聞くのが一番手っ取り早いのですけど当時の私は「下手に宗教に関わると面倒だ。と。教会に行けば必ず勧誘されるから、絶対に行かない。教会に行かなくったって、キリスト教の本を読めばいい」と思ったりしていました。でも、キリスト教書店の手がかりは何もありません。それから何ヶ月もたったある時、古本屋で中古の本を買いました。その本の間になんとキリスト教書店ライフセンター福岡と書かれたしおりが挟まれていたんですね。私はまだ祈りとか知らなかったけど「神様が、私の願いを聞かれた!」と確信しました。三浦綾子さんが言うように、神様は本当に私の心の中の全てを見ておられるんだ!と思って、何だか神様と気持ちが通じたようで嬉しかったです。

念願のライフセンターで信仰の本をいろいろ買いました。それを読んで満たされるかと思いきや、神様に、触れれば触れるほど、その渇望は、底なしのようになっていくのを感じました。教会には絶対に行ってはいけない。勧誘されるから!と思いながらも、

イエス様を信じた人たちに会いたいんです。クリスチャンという人たちに「直に」会って、もっとその人の、リアルな生の証しが聞きたい!と心底願うようになっていきます。

それでも私は、教会の門を、くぐることはできませんでした。

そういうモヤモヤした状況と同時進行で、妹がエホバの証人に誘われて通っていることがわかりました。「姉ちゃんも聖書に興味があるなら、キリスト教はだめよ! 正しい聖書の学びをしたほうがいいよ」と勧められたりして、2人のエホバの信者さんが「妹さんのご紹介で来ました。」と言って、突然訪ねてきて。そして私は、神様の話をする相手に飢えてましたから、しばらくの間、話を聞く事になってしまいます。

初めは地球の地軸の傾きの話とか、引力の絶妙さの話とか。科学者の本を用いて、神様の設計がいかに精巧で素晴らしいか!という話で、とても楽しかったのですけど。興味津々になってきたあたりで「ところで実はイエスは神ではないんですよ。聖書にも、そうはっきり書いてありますよ。」という教えに入ります。

自分では、イエス様は神様だと思ってるわけですから、「聖書のどこにそんなことが書かれてある?」って興味を持ちますよね。カルトというのはとても恐ろしいです。まだ信じ始めたばかりの、よちよち歩きの私は、だんだん揺さぶられていきます。みことばを都合のいいように、うまい具合に利用するので、本当に聖書にはそういう意味で書いてあると、その解釈がインプットされていきます。そして、「もしかしたら・・イエスは神様ではないのかもしれないな~」と、疑い出してしまいます。

そこでちょっと面白い体験をしました。イエスは神ではない!とすると途端に、不思議なことに、今まで感じていた、神様に対する喜びが、全然!わからなくなったんです。徐々にわからなくなるんじゃなくて、突然、一気にわからなくなってしまったんです。

イエス様を底無しに求めるような気持ちも、イエスは神ではないと思い始めた途端、なんだかモヤがかかったように、求める心がよくわからなくなってしまうんです。私はあの喜びを思い出したくて、わざと美しい夕焼けを見たり、美しい花を見たりして、なんとか神様を思い出そうとしましたが・・。 その喜びは、自分の力では取り戻すことはできませんでした。すごく、なんとも言えない、不安な気持ちになりました。

でもその不安な体験が逆に偽物だと気付かせてくれて、イエスは神であると、もう一度改めて信じた瞬間に、あの時の満たしが一瞬で蘇ってきました。徐々にではなく、あっという間に、ブワ~っと溢れるように喜びが戻ってきたんです。

それは私にとって、とても印象深い経験で、のちにきちんと教会に通い出して「誰でも聖霊によらなければイエスは主であるということはできない」というみことばを後で知った時に、本当にその通りだと思ったのでした。

私はこのようなことから、聖書を利用したカルトには、正しい聖書理解でしか立ち向かえないんじゃないかと思い始めて・・・。そこで、とうとう 教会という所に行こう! 行くしかない!神様のところに行って、この妹の問題を助けていただこう!と、やっと思い立ったんです。

教会は、想像とは違ってて、とても居心地のいいところでした。なんだか神様に包まれているようで、讃美歌を歌っては、涙が溢れて、温かいものを感じるところでした。

初めて教会に行ったのは祈祷会でしたが、その帰りに、そこの下川牧師から「こういうキリスト教のラジオもありますから、よかったら聞いてみて下さい」と言って、FEBCキリスト教ラジオの、月報を2ヶ月分いただきました。家に帰って読んでみると驚いたことに、牧師が何気なく棚から出してくれた、その2ヶ月分の月報は、ちょうど2ヶ月連載で「エホバの証人の特集」だったんです。

明らかに、神様が背後で、働いておられる!と感じて、震えました。そして思った以上に、恐ろしい集団であることがわかって、その記事を書かれた神奈川県の牧師にすぐFaxを送りました。翌朝お電話いただいて「神奈川県とこうして電話でのやりとりというのは難しいので、福岡県なら、実は直方というところに、元エホバの証人だったご夫婦が、今救済活動されているんですよね。よかったら、そちらとコンタクトとりませんか。直方って分かりますか?」と。

私は職場が直方で毎日通ってますし。元々直方は地元なんですよ!と申し上げたら、先生も不思議な縁を驚いていらっしゃいました。

その元エホバの証人の原田さんご夫婦は、クリスチャンとなられてて、何度もお会いして、たくさんの話を聞きました。イエス様のお話もジョイフルで夜中まで聞きました。

その頃、ちょうど妹はエホバの証人の中で、迷いを感じていて、「納得できないものがあるんだったら、元証人の話も参考に聞いてみない?」と持ちかけたんですけど、脱会者に会うことは危険だと教え込まれているので、会うのは怖いといいます。

それで原田夫妻とも「焦らないように」と連絡を取りながら、いろいろチャンスを伺っていました。でも妹ががんとして、元エホバには会いたくないというので、ではうちの牧師に会うのはどうかと思ったんです。教会の牧師は聖書の事を何も知らないと教えられているので、会って話せば、その教えは嘘だと気づくはずだ。と思ったんです。で、妹は「ん~。脱会者と会うよりはマシかな」と。渋々でしたが私はチャンスだと思いました。

ところが今度は、牧師と妹のタイミングが、何度調整しても合わなくて、結局最後まで二人を合わせることができませんでした。

神様の御計画と私のアイデアは、違っていました。ある日突然妹が、その元エホバの夫婦にあってもいい・・・と言い出したのです。原田夫妻は、今すぐにでも行けます!ということでした。でも「妹さんはエホバとの関係がまだ一年足らずですが、マインドコントロールの度合いにもよるので、数年かかるかもしれませんよ。」と言われました。 

でも、そのわずか数時間後、妹から「私、目が覚めたよ!エホバは間違ってた。」という電話がありました。え?本当にもうわかったの? マインドコントロールは?
                                        
※実は原田夫婦は、妹が高校生の時に習ってたジャズダンスの先生だったんです。玄関を開けて顔を見た時、わ~先生、懐かしい!どうぞお上がりください!となって、懐かしい話と共に、緊張がほぐれて、素直に話を聞くことができたそうです。※そしてクリスチャンとなられた原田夫妻の変化が証しとなっていたようです。

このエホバ騒動は、神様が用意された、私の救いのための道でもあった訳です。この件がなかったら、私はあの時、教会には行ってません。

肉というのは頑なです。でも、神様は全ての人に手を差し伸べられてて、そして神様の時があって、御心をなす力が、小さい何気ない古い過去のことを用いてでも遂行されて行く。神様はそのようなお方だと、あの時私は体験しました。

さて私は仕事柄、平日休みだったので、月に一度の第三日曜にしか、礼拝に出れませんでしたが、教会生活も馴染んできていました。

ある時、イエス様の誕生に関する、マリアとかヨセフ、ゼカリヤの賛歌を読んでいて、とても不思議に思いました。彼らは、さっきまで神様の言葉を信じられなくて、うろたえていたのに、なんで人が変わったかのように、こんな素晴らしい賛美を、捧げることができたのだろうか??と。

こういう素晴らしい賛美をささげる信仰者になりたいと。彼らを羨ましい目で見ていました。

でも、「私がまだできないからダメとか、祈れるマリヤが素晴らしい。とか、ゼカリヤさんは、こんな祈りと賛美ができて、すごい人」だとか。このように神の働きを見るのではなく、人を見るということ、私ができるとかできないとか、私はまだだめだとか、あの人はすごいとか、私が、私が、あの人がこの人が。これが私たち肉の思い、的外れなのですよと、ある姉妹に教えられました。でも、そう聞いても、わかるようで分かりませんでした。

神の言葉には、あまりにも今まで生きてきた価値観と違う世界が渦巻いてて、なんか自分が追いつかないような気もしていたし、神様との関係に、大きな喜びがある反面、その時、実際に日常も苦難の連続でしたので、兄姉に祈って励まされ「神は乗り越えられない試練を与えない。必ず逃げ道が・・・」とか聞くたびに、なんか神様を信じたら余計に、ギリギリ耐えられるほどの、苦しい試みに遭わされているんじゃないのか??というような思いがしてきて、人の「みこころのままに」という祈りに、私は恐れを感じて、アーメンと言うことができませんでした。

神様を信じているのに、苦しいというのが、本当に苦痛でした。こんな私じゃ洗礼を受ける資格がないですよね?と毎日のように神様に訴えるようになっていきました。

ある時、料理しながらいつものように「みんな、なんであんなに神様に委ねられるんだろう? もう少し信仰深い私であったらな~。」と呟いていたら、ふと、あるみことばが浮かびました。

ルカ17:5~ にあります。 「主よ。私たちの信仰を増して下さい」弟子たちがイエス様から7度赦しなさいと言われて、そんなこと到底できないと思って、口に出した言葉です。                             もう少し信仰が増し加わったら、強い信仰を持ったなら、自分たちも7度でも赦すことが、できるような者になるのではないか?という思いがあったかもしれません。

私はこのように言った弟子たちを、まるで今の自分のようだと思いました。それに対してイエス様のお返事は「もし あなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」
 
からし種というのはとても小さい粒だそうですね。一粒が0,5ミリだそうです。そんな小さいからし種ほどの信仰さえあればいいって。 からし種ほどの信仰って、一体 どんな信仰なんだろう?・・・。

そう思った瞬間、突然、頭の上で鈍いドーン!という轟のような地鳴りのような音がしました。と同時にその音の中から「わたしの憐れみなしに、救われる資格のある者がこの世にいるのか」と胸に突き刺さるように、声がはっきりと聞こえました。

途端に私の目からまさしく鱗のようなものがポロッと落ちて「主が今、手を差し伸べておられるのに、私はそれをいつ、つかむつもりなんだろう」と思いました。「主が招いておられる今、受け取らなくて、いつ受け取るんだろう」と。

わからないことだらけでもいい、そんなことは神様はよくわかってる。わからないままのあなたでいいんだよ、神であるわたしが、そんなあなたを救うんだと。神様がそう言って、私に手を差し伸べておられる、と思うと涙が出ました。

私も、弟子たちのように、自分の姿に不足を感じていました。不十分な自分が、苦しみの原因だと思っていたんです。

そしてさっきまで、ほんの数秒前まで、救いを受け取る資格がないと嘆いていた私が「主よ。私は間違っていました。この私のためにイエス様は来られたんですね。あなたが私を 全ての苦しみから救ってくださいます。」と神様の手を握りました。「神様、私を愛してくださって本当にありがとうございます! このような者だけど、あなたに委ねます。あなたと一緒にこれからの人生を歩きます。」と。自分が自然に神様に賛美をささげていました。

無我夢中でたったいま起きた、救いの出来事を、牧師にFaxで送りました。料理をしている最中でしたから、野菜クズがついてて。でも手を洗って拭く、そんなどころではない!という感じでしたので、キャベツや玉ねぎが手についたままで字を書いたので、紙が水分でヨレヨレになっていたのを覚えています。

そして洗礼を受けることになるのです。牧師と、その日をいつにするか話し合いました。「イースターに受けれるといいね。でも、あなたは、第3日曜にしか来られないから、イースターは無理かなぁ?」と言いながら、カレンダーをめくると、4/15の第3日曜がその年のイースターだったんです。ゆっくり準備して、丁度いい日にちで、しかも第3日曜でした。

牧師が「あ~・・この日が、あなたのために、きちんと取り分けてあったね!!」と喜んでくださり。そして、いや実はね、僕も4/15のイースターに受洗したんですよ。すごい偶然だね!と言われ、二人で神様のなさる不思議を讃えました。
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私がイエス様を求め始めた時から、洗礼を受けるまでに3年もの歳月がありました。その間、神について、救いについて、いろんなことを思い、考え、求めました。でも、結局、自分の学びとか自分の理解では、ここまで来れませんでした。

初めの頃、三浦綾子さんの証しの本に、何故だか心を動かされた理由も、私の魂にも同じ聖霊様が、呼びかけておられたからでした。それを読んで救いの意味をよく理解できなくても、私の魂が父なる神の愛に触れられて、反応したんだ。とそのように感じるんです。

神様が近づいて、私の魂を引き寄せてくださいました。私は自分の魂の飢え渇きを、自分ではどうすることもできないだけでした。

そのような神様のご意思と神様の時の中で、ただ恵みによって、私は救われました。本当に、神の憐れみなしに救われる資格のある者はこの世にいないのです

神様はこのように、私たち一人一人にものすごい思いを持って、近づいてくださり、これからもっと、神と歩むことの素晴らしさを味わってほしいと、さらにさらに深く関わってくださっています。私たちはそういう毎日の中にすでに入れられています。

今日の聖書箇所にさせていただきました (ローマ 4:5~8)リビングバイブルには、こう訳されています。罪人が、「キリストは自分を、神の怒りから救い出してくださる」と信じる時に、神は彼らを正しい者と宣言してくださるからです。

このみことばは、アブラハムの話を通して語られています。年老いたアブラハムは、これから海辺の砂の数ほど子孫が生まれると言われ、「はい、信じます」と言ったことで、「義」とされました。しかし何年経っても何年待っても、後継となる子どもが生まれません。そこで、神様の約束を彼らなりの解釈の仕方で、若い女奴隷の体を通して後継をもうけましたが、神様は、もう一度アブラハムの前に現れて、すでに子供を産める歳ではない、妻のサラから生まれる!と、初めの約束を 再度、宣言されます。100歳の夫と90歳の妻にです。あり得ないと笑い、疑うのは当然だと思います。でもこの時、アブラハムには納得できなくても、信じられなくても「神様は約束を守る方だ」と信じることに、覚悟を決めたというか、アブラハムは信頼し続けました。

聖書には「彼は望み得ない時に、望みを抱いて信じました。」とあります。「アブラハムは神には、約束されたことを成就する力がある!ということを固く信じました。これが、彼の義とされた。」とあります。

アブラハムは、この神様を信じる信仰によって義とされました。私たちもまた、罪ある者であるにもかかわらず、イエスキリストを信じる信仰によって義とされました。神が正しい者だと宣言してくださったんです。

ある牧師さんからこう教えられたことがあります。神様が命令されたことは、神様が成し遂げられる。神様があなたに与えられた飢え渇きは、神様が満たしてくださる。

「神様はこのようなお方なんだと信じること。その手に委ねること。」 
 それが、からし種の信仰なのではないのかなと思わされたのでした。
  
でも実際問題を前に、この神の約束を信じ抜こうとするには、自分の意思だけで、信じ抜くことはできませんから、不信仰との葛藤があります。神様の約束より、自分の考えに頼る事を、私たちはついしてしまうのです。そしてそれが習慣になることも、ないわけではありません。だから 救われた時の、最初にいただいた神様の愛を思い出すことは、とても大切なことだなぁと思うのです。

今日、選んだ「神はひとり子を」という賛美は。ここの讃美歌には3番までしかありませんが、聖歌の方には4番があります。「さあ急いできて、神の愛のうちに、あなたのままの姿を委ねてごらん。必ずそこから救い出すから」という歌詞で、これは私の勝手な意訳ですけど。

わたしの所に、いますぐ来なさい。恐れずにわたしに助けを求めて、ここに来なさいと言われる神様に対して、時に、信じたくないような思いが強く、自分の心が頑なになることがあります。そのような時、私は時々このように想像して祈ることがあります。

お父さん!って、小さい子供のようになって膝に抱っこされると、父なる神様は、信じることのできない、自分の考えを手放したくないという私そのものを、そのままに受け入れてくれて、その話をじっくり聞いてくださいますから。神様の愛いっぱいの眼差しに安心して、葛藤している心のうちを吐き出します。

何日も、内容によっては何ヶ月も、人に言えない気持ちや、神の言葉を選ぶことの恐れや、嘆きの本音を。
心にある言いようのない思いを告白するうちに、神様との間を隔てているものが開いて、自分の不信仰に対して「全く示されたその通りです」と自分の心にストンと落ちるような、そして委ねる平安をいただくように思います。
神様に愛されてる、そしてイエスによってすでに赦されている。これからの私の人生を共に歩んでくださるこのお方が、必ず約束の地に導いてくださる。そういう安心感が、神の約束に立つ信頼となって、また一歩前に進み行かせてくれるように思うのです。

何度も何度もこうやって繰り返しながら、改めて気付かされることは私たちの応答は常に、神様の愛から始まるんだなーと。

そしてまた、救われて神様と共にいるということが、どれほど素晴らしいことなのか、まだまだ気づいていない事がとても多くあるのです。

どんなところからでも、何度でも、差し伸べられた手につかまって、もっとその救いの喜びを自分自身で味わいながら、人に示しながら、生きたいなと思っています。

聖書のお話