2021年9月19日 聖書:創世記 1章1節 「恵みの契約」 川本良明牧師

●大変よく知られた聖書の最初の言葉、<初めに、神は天地を創造された>という言葉を、教会は使徒信条において、「我はこの神を信ず」と告白しています。神こそ教会が宣べ伝えている内容です。ところが私たちは、<神>という言葉や概念があらゆる宗教で見られることを知っています。ですから少し立ち止まって、聖書が語る神とどんな関係があるのか、はっきりさせておきたいと思います。とりわけ日本では、国家神道が歴史的に大きな力をふるったことを思うとなおさらです。
●近代まで京都周辺を除けば日本人の大多数は、天皇の存在すら知りませんでした。それがわずか40年で天皇のために命を捧げる国民に変えられたのは、<皇室>と<神社>と<天皇崇拝システム>がセットになった国家神道という宗教が猛威をふるったからです。なかでもこの宗教の教科書である教育勅語による教育の効果は絶大でした。1890年に発布され、内容は天照大神とその子孫である天皇が治める「天壌無窮の御国」のために尽くせというものです。短い文章ですが、小学校で強制的に徹底的に暗記させられ、歴史や地理、国語や音楽などのあらゆる分野もこの皇室神話に基づいて編成されていました。今その結果について語ることは、時間的に無理ですが、アジア全域と太平洋の島々で暴虐の限りを尽くして敗亡にまで至らせたのは、まさに国家神道という皇室神話の力によるものでした。今も話題となる「森友学園」は、土地や金の問題ではなく教育勅語による教育が問題なのです。
●<初めに、神は天地を創造された>で始まる聖書の言葉は、神話ではありません。神話はすべて、神がすでに創造している世界に関わっているのであって、その点で、すでに存在しているものに関わっている自然科学と似ています。<初めに、神は天地を創造された>という<初め>とは、天地が創造される前つまりこの世界が存在する前の初めであって、自然科学も神話も到達できない絶対的な始まりなのです。
●そして聖書は、神が創造された世界全体を、<天と地>という言葉で言い換えていることに注目したいと思います。天とは、見えないもの把握できないものであり、地とは、見えるもの把握できるものですが、どちらも神の被造物です。ですから私たちが一般に天と呼んでいる成層圏や銀河などは天ではなくて地です。また見えず把握できず神秘的だからといって、天を神と呼ぶなら、それは未開人が太陽を崇むのと同じです。天は神と何の関わりもないのです。聖書は神のいます天を第三の天と呼んでいます。ですから世界の神話が語る神々が住む天上の世界も、皇室神道が「天壌無窮」と語る天も、神の被造物に過ぎないのです。イエスは、<復活した人々は、もはや死ぬことがなく、天使に等しい者である>とはっきり言われています(ルカ20:36)。死後に行く所はこの天ですが、神しか知らない世界なのです。
●この天に対して地は、理性や感覚や直観で把握できる世界です。<神は、土の塵で人を形づくった>(創世記2:7)とあるように、この地上で私たちは生まれ、やがて<土に返る>(同3:19)ことに向かって人生を送っているのですが、しかし私たちは、<再び土になる>という自然の目標の他になお別の目標を持っています。それは運命や自然の力や必然ではなく、神が人間に対して立てられた契約によるのです。創世記第1章は、その契約によって神が人間をお造りになった3つのことを書いています。①人間は神の作品であること、②神にかたどって造られたこと、③神に祝福されていること、この3つです。
❶《神の作品》第1章には、光から動物までさまざまな創造が語られていますが、人間は一番最後に創造されています。なぜ最後なのでしょうか。それは人間のために、神はあらかじめ万物を備えて下さったということです。パウロは、<人間は神の作品である>(エフェソ2:10)と語っています。また預言者イザヤは、<主よ、私たちは粘土、あなたは陶工です>(イザヤ64:7)とも語っています。陶工が粘土を何度も何度も粘るのは、空気が少しでも入っていると高温で割れるからです。それほどに神は、人間をかけがえのない存在として創造されているのです。
 神は孤独ではなく、愛においても完全です。被造物など必要ではないはずなのに、神とは別のものを創造されたのは、神の栄光を現わすためでした。天と地は神の栄光を現わす舞台であって、とりわけ人間は、神の栄光を現わすために特別に造られています。イエス様は、生まれつきの盲人を見て、<彼が盲人なのは両親の罪ですか、本人の罪ですか>と訊く弟子たちに<神の業がこの人に現れるためである>と言われ(ヨハネ9:3)、また愛するラザロの病気を聞いて、<この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである>と言われています(同11:4)。
●しかし人間は、罪を犯したために人生の目標を失ってしまい、神の作品を台無しにしてしまいました。この罪について聖書は、創世記第3章で紹介しています。本来人間は、裸で生まれ裸で死にます。しかし生きるためにいろんなものを欲しがります。もちろん欲が生きる気力を与え、社会を発展させ、文明を作ってきましたが、神の被造物としての限界を破り、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して、神の栄光を現わすことのできない、死んだも同然の姿となっています。エデンの園で、蛇の姿をした悪魔にそそのかされた人間が、禁断の木の実を見て欲しくなり、取って食べたのは、そのことを語っています。「土から造られたお前は、苦労して生涯を過ごし、再び土に返る。」と神から宣告されたのはこのときでした。
●しかし同時に神は、蛇に向かってじつに謎めいたことを告げます。<お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く>(創世記3:15)。頭を砕くとは滅ぼすことであり、かかとを砕くとは深手を負わせることです。これは明らかに、女の子孫(単数)はイエス・キリストであり、彼の十字架の死を予告しています。
 その予告通り、神は、人類の中からアブラハムを選び、その子孫としてユダヤ民族を興し、イエス・キリストとして、ユダヤ人の一人となってこの世界に来られました。それは単に神が人間となったというのではありません。多くの神話も神が人間になったと語り、天皇も現人神と呼んでいます。しかしイエス・キリストの神は、神の敵である私たち人間を、御自分の命を賭けてその罪から救い出すために世に来られて、その十字架の死によって私たちの罪を贖い、死を滅ぼされました。
❷《神にかたどられている》そればかりかイエス・キリストは、完全な人間として復活されて、神の右の座につかれました。罪を犯す前の人間を聖書は、<神は御自分にかたどって人を創造された>(創世記1:27)と書いています。この人間こそ<十字架の死に至るまで神に従順であった>(フィリピ2:8)イエス・キリストであり、彼は完全な人間性を実現して下さいました。これが恵みの契約であり、私たちを、終わりの日にこの卑しい体から完全な人間性に変えて神の民とし、天の世界で神の栄光を現わして永遠に生きる者にするという約束です。またこれが<再び土になる>という自然の目標の他になお与えられている別の目標なのです。
❸《祝福》私たちは、神の作品であり、神にかたどって造られた者であり、神に祝福されています。祝福とは、ひざまずく、ぬかずくという意味です。万物を創造し、人間を神の作品として造り、罪を犯して敵となった私たちを、その測ることのできない愛と恵みとによって、神にかたどった者としてくださった神は、万物に向かってぬかずかれます。これは私の勝手な推測ではありません。そのことをはっきりと示されたのは、<私を見た者は、父を見たのだ。私と父とは一つである>と語られたイエス・キリストです。彼は弟子たちの足を洗われました。全能の神の子が、奴隷のように身をかがめて、私たちの汚い体を洗って清めて下さるのです。
●最後にこのような神の恵みの業が、私たちの実体となり、生活の中で、血となり肉となること、これもまたイエス・キリストによって約束されていることを感謝したいと思います。しかし神の作品であり、神に似せて造られており、祝福されていながらも、相変わらず私たちは、罪を犯し、欲がはらんで神の作品を台無しにしています。しかしそれでいいのです。そのためにまずそのような自分を認め、受け容れて悔改めることです。悔改めるとは、向きを変えることです。後ろから、天から、光が照っていますが、前を見ると、卑しい、汚れた自分の影しか見えません。しかし向きを変えると光が照っています。下から上に、地から天に向かうのではなく、上から下に、天から地に向かい、光から自分を見るのです。そのとき、私は造られる前から神に覚えられ、愛されていることを知り、それまで人に振り回されていたことから解放され、人生が宝に変えられるのです。
 何度も勧めていますが、向きを変え、光でありイエス様の霊である聖霊を求めて祈るとき、神の恵みの業が実体となり、人生が変えられるのです。それも、請求書の祈りではなく、「このことが聞かれていることを信じて感謝します」と領収書の祈りをするとき、聖霊の実を結びます。それはガラテヤ5:22節にある愛・喜び・平和…などであり、その実を結んで私たちは、新しく生きる者とされるのです。
●神の愛に最も近い愛が母の愛ですが、聖霊の実を結んで神の愛に生きる者とされた一人のキリスト者の証しを紹介します。「母の足音」というエッセイです。
「トントントン、がっがっがっ、ゴロゴロゴロ。2階で母の足音や戸を開け閉めする音が聞こえる。ああ、生きてる、生きていてくれると思う。3年前の秋に父が亡くなった。2人暮らしだった家に母は独りぼっちになり、80才を過ぎた母と同居することにした。15年ほど前に父が建て替えた家。私は父が使っていた1階の部屋を頂戴した。住み始めてみると驚くほど2階の音が響く。同居する前は頑丈なマンションに住んでいました。ですから上の階の音など全然聞こえませんでした。しかしここに引っ越して母の足音の大きさにイライラして、もっと静かに歩くように、と苦情を言っていました。しかし長年の習慣をそう母は変えることはできませんので、到底無理な話でした。仕事が休みのある日、2階で全く音がしないことに気がついて、あれっ、どうしたんだろう。もしかして倒れてるんじゃなかろうか。慌てて2階に駆け上がったものです。コタツの上に置かれたラジオの音が聞こえている、その前にぽつんと座った母は、うつらうつらと居眠りをしていた。目が見えにくくなった母はテレビではなく1日中ラジオの前に座っている。あっ、何だ、良かった、と思うと同時に、あのうるさかった、騒音だった母の足音が、今や命の音に変わった。どっ、どしどし、今日も力強い足音が聞こえてくる。」

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