2021年10月3日 聖書:マルコによる福音書1章22~39節「いやしと祈り」世良田静江牧師

夕べになり日が沈み、人々は病をもっている人や悪霊に憑かれた人びとをみなイエス様のもとに運んできました。ここから癒しの話が始まります。この日は安息日であったとありますから、安息日には病を癒やすことはしてはならないと言われていましたから、民衆は日が沈み、安息日のあけるのを今か今かと待ちかねていたのです。安息日は休んでその日を神に仰ぎ、休養する日とする律法があります。しかし、安息日に人をいやしてはいけないというのは律法学者の解釈であって、言わば言い伝えに属します。あなた方は神の戒めをさしおいて、人間の言い伝えに固執していますと言われている通りです。今や神の戒めではなく、人間のこしらえたものが人びとを苦しめています。多くの苦しみは神からくるのではなく人災です。人びとはこうして二重の苦しみの中にありました。一つは実際の病の苦しみ、もう一つは人間のこしらえた言い伝えからくるものです。今でこそ水銀で汚染された魚を食べたことで病になった水俣のチッソの問題、当時は業病とされ、祟りとされ、苦しい病を更に隠し続けた人びとの二重三重の苦しみを思うと胸が痛むなどの言葉では言い尽くせません。イエス様は人を愛することこそが重要であり、安息日に病を癒して人びとを苦しみから救うという愛の行為で溢れていました。様々な病気で苦しんでいる多くの人を癒し、また多くの悪霊を追い出した。ところが聞き届かない祈りがあります。真の信仰はご利益よりもイエス様を愛します。いやしはこの結果なのです。ご利益が福音により解放の結果であることを忘れて、ご利益を求める時、イエス様はそこにいません。イエス・キリストという言葉はありますが、その恵にたよらない教会は人の噂と中傷の教会になり、キリスト不在の集会となり下がっていきます。夜明まだひどく暗いうち、イエスは起き出て淋しいところに離れて行き、そこで祈っておられた(マルコ1:39)この箇所を心に刻みましょう。

聖書のお話