2021年10月10日 聖書:ルカ による福音書15章11~24節 「全能の父なる神」 川本良明牧師

●聖書の最初の言葉<初めに、神は天地を創造された>を聞いて、私たちは、神が天地の造り主であり、私たちは神の被造物であることを知らされます。そして教会は使徒信条で、「我は天地の造り主を信じる」と告白し、それに加えて「我は全能の父なる神を信じる」とも告白してきました。ところが「神は無限である・永遠である・普遍的で絶対的な聖さや慈悲の存在である」などと饒舌になったのは、哲学的能力や宗教的能力で神を把握できるとの誘惑に陥ったからです。人間には神を把握したり規定することは不可能です。そして使徒信条は、人間の一切の可能性に目を向けず、「全能」というただ一つの言葉を「父」と結びつけて語っています。
●「全能」とは、どんなことでもできる完全な力という意味です。「全能の神」とは、何でもできる力を持っている神を意味します。人類の歴史は、全能の神を求めてやまない歴史でした。それは、神という言葉を使いながらも、力そのものを求めてきたからではないでしょうか。そして驚異的な力を目にすると、うっとりし、尊敬し、崇め、称えます。かつてドイツの独裁者ヒトラーは、神を「全能者」と称び、自分を「救世主(ハイル)ヒトラー!」と称ぶように演出しました。日本でも、話合いをしている中で誰かが、「おそれ多くも陛下が…」と言ったとたん、皆ピリッとなって、思考がなくなり、直立不動になる場面を見ますが、ドイツ以上に徹底的に国家神道による天皇の絶大な力に敬服しているということができます。
●しかし、使徒信条が語る神は、「全能者」でも「力そのもの」でもありません。使徒信条が「全能の神」を「父なる神」と結合して「全能の父なる神を信ず」と告白していることに注目してください。この場合に注意すべきは、世の中には良い父親もおれば悪い父親もいますが、それはともかく、まず人間の父親像があって、それを父なる神に当てはめてはならないことです。まず父の本性が神のもとにあって、この神の本性から人間の父の本性が導き出されるという順序が大切です。使徒信条は、<何よりも先に神がまことの父であり、被造物である私たちのためにも父である>から、神を父と呼んでいるのです。
●旧約聖書を見ると、神の父性から人間の父性が導かれるという順序は明確です。<主は造り主なる父であり、あなたを堅く立てられた>(申命記32:6)とあり、<主よ、あなたは私たちの父です>(イザヤ63:16)とあります。この神への呼称が、肉の父親を「父上」と呼ぶことに反映しています。また「父祖アブラハム・父ダビデ・父マナセ」などの呼び方が多く見られます。どの人物も例外なく罪多いにもかかわらず「父」と呼んでいるのは、神こそ真の父であり、このお方が子孫としてやがて来られる(!)という信仰と希望を反映しているからです。
●この神がすでに来られた(!)ことを想起して書かれているのが新約聖書です。とりわけ4つの福音書は、イエス・キリストの生涯を想起して書いています。その生涯の受け止め方はまちまちですが、しかし彼の十字架の死と復活という決定的・中心的な出来事と旧約聖書の預言が成就したということは、どの福音書も微塵も変わりません。内容的にはそれぞれ微妙にちがいますが、何よりも重要なのは、その出来事が全能の父なる神の業であるということです。イエス・キリストが昇天してから数十年経とうと数百年経とうと、彼と共におられた父なる神は、いつも現臨しておられます。その神ご自身が、人の手を通して書かれたのが福音書です。ですから現在も私たちが福音書を読むとき、全能の父なる神が私たちの目を、耳を、心を開いてくださって、語りかけておられるのです。
 人間の目で見れば、いろんな違いが出てくるのは当然ですが、天の光の下で見るとき、福音書は違いがあればこそ真実を伝えていることが分かります。とりわけユダヤ民族の歴史とその中で働かれた全能の父なる神の業の延長線上で新約聖書を読むとき、聖書が一貫して神の歴史を語っていることを知ることができます。ユダヤ民族の歴史を除き、旧約聖書を軽んじるとき、キリスト教は歪んできます。米国に多く見られるのは新約聖書しかないキリスト教です。旧約聖書を軽んじているため、キリスト教が1つの宗教に堕しています。果たして本来のイエス・キリストを伝え、証ししているのだろうかと思うのです。
●使徒信条が「全能の父なる神」と信仰告白しているのは、すでにその神が、イエス・キリストとして来られたことを反映しています。当時の人たちが神を「父よ」とかしこまって称ぶのに対して、イエス・キリストは幼い時から「お父さん」と親しく語りかけています。そのため宗教指導者たちは、「神を冒瀆している」といきり立ったのです。しかしイエスは、<父が私におり、私が父にいる。父と私は1つである>と語ったように、自分が父の子であることを偽ることはできませんでした。彼は、父と子の愛の絆において、ごく自然に全能の父を啓示したのです。
●この父なる神がどのようなお方であるかを最もよく現わしているのが、スプランクニゾマイという言葉です。それはユダヤ人が旧約聖書の言葉をギリシア語に翻訳した言葉ですが、「はらわたが震えるほどの愛の心」という意味の翻訳不可能なほどの強い言葉です。福音書に12回出てきますが、3回はイエスが語った譬え話に出てくる「借金を帳消にした王・善きサマリア人・放蕩息子の父親」という憐れみ深い人物です。残りは<群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた>(マタイ9:36)とあるように、福音書記者がイエスご自身の人格に当てはめています。ですからこの言葉は、イエスが、また全能の父なる神が、私たちをどのように見ておられるかを示しています。
●とくに父親が登場する「放蕩息子」の譬え話がそうではないかと思います。息子が父親に「財産を分けてください」と言います。当時の習慣では、生きている時に父親から財産を分けてもらうことはあり得ないことでした。彼は財産を換金して遠い国へ旅立っていきます。父親はいつまでたっても戻ってこない息子を、待って待っていたと思います。ところがとうとう息子が戻って来ました。「父親は息子を見つけて、憐れに思い(スプランクニゾマイ)、走りよって首を抱き、接吻した」とあります。もう目がうすり、足もそんなに強くなかったと思います。しかしいろんなものを失った親でしたが、ただ一つ絶対に親しか持ってないものがありました。それは息子を抱く手でした。遠いところから、ボロボロで、よれよれの服で戻ってきた息子を、父親は、その手で、責めることなく、そのまま受け容れたという物語です。この譬え話の中で私は、①我に返った、②悔い改めた、③復活した、という3つのことが語られていると思います。
❶「人は苦労しなければ変わらん」と言いますが、苦労すれば余計にいじけてしまうのが人間です。しかし彼は「我に返った」と言うのです。不思議だと思います。イエスはペトロに、<シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った>(ルカ22:31)と語っておられます。息子が我に返ったのは、父親の祈りがあったからではないかと思います。
❷我に返った息子は、「お父さんの所に帰ろう。もう息子と称ばれる資格はない。せめて僕の一人としておらせて下さいと言おう」と決心します。自分を見ることから、向きを変えて、父に目を向け、言い訳も自分を責めることもせず、父の赦しを信じ、一切を父にゆだねる決心をしています。まさにこれが悔い改めなのです。
❸ところが父親は、はるか向こうに息子の姿を見ると走って行って抱くのです。ふところに抱かれた息子は、心に決めていたことを語ります。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」そして「雇い人の一人にしてください」と言おうとすると、それをさえぎって父親は、「いちばん良い服を着せ、指輪をはめてやりなさい。…」と言います。そして、何よりもすばらしい言葉は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」という復活の言葉でした。
●ところで、身も心もぼろぼろになって帰って来た息子を迎えた父親、帰ってくるのをスプランクニゾマイの愛で待ち続けた父親は、その後、息子をどうしたのでしょうか。自分の息子としてふさわしい人間に育てていったのではないかと思います。なぜなら、この父親こそ全能の父なる神だからです。そしてこのことは、イエスの十字架の死によって贖われて、神のものとされた私たちにも言えることなのです。私たちもまた、神の敵であった人間から、罪ゆるされた者にふさわしい神の子としての風格、品性、資質、資格を備えた人間に新しく造り変えられます。人間にはできませんが、神には何でもおできになるからです。このことをパウロは、「イエスの似姿になる」「イエスを着る」(Ⅰコリント15:49、53)などと表現していますが、これこそ聖霊の実を結ぶ(ガラテヤ5:22)ことです。父親の愛のもとで放蕩息子は、愛する、喜ぶ、平和に生きる、寛容である……などの聖霊の実を身につけていき、人間らしく育てられていきました。
●しかし、聖霊の働きに与るのは、クリスチャンだけの特権ではありません。神は自由です。聖霊は教会の中だけで働いているのではありません。クリスチャンであろうとなかろうと、神は自由に働いて、神の温もりを起こされます。ガッツ石松のお父さんもそうでした。
石松少年は、貧しさもあって、本当にワルで、同級生に「これ持ってこい、カネ持ってこい」とやっていたので、保護者から学校から、とうとう裁判所に行くようになりました。しかしお父さんは、「あとすんなよ、したらダメだぞ」と言うだけで、またすぐくり返していました。ある裁判所の帰り道、ラーメン屋さんに寄りました。外食といってもまだ珍しい時代で、彼は生まれて初めての外食に大喜びでした。お父さんはポケットから全財産の60円をはたいてラーメン1杯を注文しました。彼はびっくり仰天、世の中にこんなうまい物があるかと感動して、あっという間に食べ終わると、本当に満足でした。胃袋も満足でしたが、自分の存在を父親が認めてくれたことに嬉しかったのです。お父さんは、本当に嬉しそうに息子が食べるのを見届けた後、少し汁が残っていたのでしょう。コップの水をそのどんぶりに入れて、箸でかき回して洗うようにまぜると、それを飲み干したのです。その瞬間、彼は、ハッと気がつきました。「何ということだ! 何というボクか。お父さんに一口も残さないで…!」。そのとき初めて彼は、深い父親の温もりにふれたのでした。それは神の温もりではないか、神はガッツ石松のお父さんの中に聖霊として働きかけて、その温もりを現わされたのではないかと思うのです。なぜなら、そのお父さんも神の作品だからです。そして中学生のそのとき以来、彼はワルをピタリとやめたのでした。
 クリスチャンだからというのではなく、すべての人が神の作品です。この父親に働きかけたのは、まさに聖霊であって、全能の父なる神の霊が働いて、父親としての温もりを与えられたのではないでしょうか。この全能の父なる神を、私たちは毎週、使徒信条によって告白することが赦されていることを感謝したいと思います。

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