2021年10月17日 聖書:マタイによる福音書20章1~16節「この最後の者にも」大薮善次郎牧

 神学校の先生が、冗談で「天国について説教するのは老人になってからするように」とおっしゃった。私は83才。その資格があるので、天国の話をしよう。今日のテキストでは、天国とは死後の世界ではない。それは現実の問題だ。
 ぶどう園の主人は、寄せ場へ行って「朝9時、12時、夕方一時間前にも労働者を雇って「一日一デナリで働け」と言う。賃金支払の時、主人は不思議な行動を取る。
 まず、最後に雇われた者から金を与えていく。次に働いた時間に関係なく、一デナリずつ支払っていく。しかもそれは主人の信念である。否、それよりも、主人の愛であると言っても過言ではない。
 我々は神の愛は普遍的であり、全ての人に平等であると信じていないだろうか。しかしそうではないのである。神は人を愛するがゆえに、偏ってあらわれることがある。それに気付くことと、それを素直に受け入れることが求められている。
 当時一デナリは人が命を保つための必要な糧である。それを神は知っておられるのだ。我々は神のなさる御業を信じて生きていくことが信仰生活なのだ。
 天国とは神が支配する国である。それに気付き、日々御国が来ますようにと祈り、神を信頼し、神に全てを委ねて生きることである。80年の私の人生も、神によって変えられていったことを思う。その時、神に愛されていたことをつくづく感じるのである。

聖書のお話