2021年11月14日 聖書:創世記 15章4~6節 「信仰によって義と認められる」 川本良明牧師

●欧米の人たちは、マリアやダビデなど聖書に出てくる人の名前をつけることが多く見られます。アブラハム・リンカーンは有名ですが、アブラハムがなぜ有名かというと、先ほどお読みした聖書の個所からです。
 <主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」>。それまでさまざまな困難や苦しみがあって、自分ばかりを見つめていた彼は、<天を仰いで見よ>と言われて、向きを変えたとき、目が開かれ、<アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた>と聖書は語ります。
●<彼の義と認められた>とは、人生の本物の土台が彼のものとなったということですが、私たちは何を最も大切なものとして人生の土台に据えているでしょうか。経済的基盤があれば大概のことは何とかなります。でもいくらお金があっても譲れないこともあります。経済のことや人間関係、仕事や職場、健康、家族や教育のことなど、うなだれるしかないいろんな出来事があります。しかし過去がどうであれ、下から向きを変えて天を仰ぐ、つまり<主を信じる>ことを人生の土台に据えるとき、最も豊かな実を結ぶと聖書は語り、アブラムは示されたのです。
●じゃ神から義と認められたアブラハムの信仰とはどんな信仰だったのか、彼の生涯から見てみたいと思います。彼は今のイラクの南のウルという所で、族長テラの3兄弟の末子アブラムという名で育ち、やがて異母妹サライと結婚します。テラは一族を率いてウルを出てハランで定住し亡くなりました。族長となり、父を失い失意の中にあったアブラムに、神は創世記12章1~3節にある祝福の言葉を語りました。すでに75才でしたが、4節に<アブラムは主の言葉に従って旅立った>とあるように、神の言葉を聞いて決心し、神に信頼してカナンの地に入ると、度々祭壇を築いて主の名を呼びました。このように、決心し信頼し主の名を呼ぶことが彼の信仰でした。その信仰は彼を謙遜にし、あえて困難な道を選ぶと、神は彼を祝福し、<あなたの子孫は砂粒のように増える>(13:16)と約束しました。
●その言葉によって彼は、神への信頼をいっそう強め、いろんな困難や試煉に見舞われても毅然とそれに立ち向かっていきました。ところがしばらく経って、彼は言い知れない虚しさに襲われ、信仰が揺らいできました。それが先ほどの15章です。
 神が突然、<恐れるな、アブラムよ。私はあなたの楯である。>と語っています。励ましの言葉なのですが、あまりに唐突です。しかもこの後を読むと、この神の言葉は彼には何の励ましにもなっていないし、彼は自分の思いの丈をぶつけています。
 じつは妻のサライとの間には子どもがなく、すでに彼女は70を過ぎていました。彼は激しい苦悶に見舞われていたのです。神はちゃんとそれを見抜いて、<恐れるな、アブラムよ。…>と言われ、彼の言葉を聞き終わると、<彼を外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」>と言われたのでした。こうして彼は、下から上に、地から天に、向きを変えさせられて、人生の本物の土台を据えられたのでした。
●そればかりか彼は、<私はあなたを、あなたが生まれたウルから導き出した主である>と神から打ち明けられ、また今はこの土地はあなたのものとなっていないが、子孫が所有することになる。しかしそれは暴力的に征服するのではなく、エジプトに下って長い間奴隷として苦難を味わい、その中で神の救いの恵みにあずかる民となり、エジプトから解放されてこの土地を所有することになるのだ、と未来のことまで示されました。このように過去と未来を示されたとき、アブラムは、自分の信頼している神への認識をさらに深めることになったのです。
●ここで注意していただきたいのですが、神はアブラムに「あなたの子孫は、あなたから生まれる者」と言い、「妻のサライから生まれる者」とは言っていません。ですからサライの立場に立って推測するのですが、夫が<あなたの子孫は天の星のように多くなる>と言われた神の言葉に感動しているのを見て、75才の自分の身を思うとき、自分の代わりに他の女性を通して夫の子を授かることではないかと考え、またアブラムも同じように考えたのではないかと思います。そこで彼女はエジプトの女奴隷ハガルを通してアブラムの子を得ることになりました。しかしその結果、ハガルもサライも深く傷つき、二人の板挟みになったアブラムも暗く重苦しい毎日を過ごすことになりました。そして最もつらかったのはハガルでした。しかし神はハガルを深く慰め、彼女に苦しみの中で忍耐する力を与え、子どもを逞しく育てるように彼女を逞しくし、希望をもって生きる者とされました(16章)。
●つぎの17章までの13年間、聖書は沈黙しています。しかし神は生きておられます。この間、彼らの生活はどうしようもないあきらめの中にあり、争うわけにはいかない表面的な平和におおわれた毎日の繰り返しでした。しかし神は、この現実を突き破り、かつてアブラムに約束したことを実現していく恵みの業を、第17章はじつに豊かに語っています。まず神は、契約を13回もくり返し語っています。また一部族の父を意味するアブラムを変えて、諸国民の父を意味するアブラハムという名を与え、妻サライも宝石のような女王を意味するサラという名を与え、二人は王であり、女王である意味の名を神ご自身が名づけました。そして神はアブラハムに、<あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む>(他の女性を借りて産むのではなく、サラ自身が産む)と言われ、<その子をイサクと名づけなさい。来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと契約を立てる>と約束しました。
●もちろん彼もサラも笑いました。アブラハムは99才、サラは89才です。子を産むことなど不可能です。ここで注目したいのは、<人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である>とイエスが言われたことです(マルコ10:7~8)。サラがアブラハムとの間に子どもを産むことによって、彼らは一体であることを体験するのですが、神はこのことを通して、長い間傷ついていた二人の傷を具体的に癒やされたのです。こうして神は、彼らの過去の不信仰の罪を滅ぼして、まったく新しく生きる者とされました。まさに十字架の死と復活が示されたのです。しかもこのことは1年後に事実となって、90才のサラはイサクを産んで、本当の笑い(イサク)を味わうことになりました。またこうしてアブラハムは、これまで信じてきた神がどのようなお方であるかを決定的に認識したのでした。この後、イサクを献げるという試煉が待っていますが、そのことを通しても神は、アブラハムに御自分をこれ以上にさらに示されることになりますが、またの機会にふれたいと思います。
●これまでアブラハムの生涯から、神を信じるとは、神の言葉を聞いて決断する、神に信頼する、神がどんな神であるかを認識する、そして信頼し、認識した神を、ただ心の中に留まらないで、外に、行ないに現れることを見てきました。つまり信仰とは、①<決心と信頼>、②<認識>、③<告白>の3つで表わすことができます。このことを簡単に取り上げてみたいと思います。
❶決心と信頼とは、父親が子どもを高い所に立たせて、手を広げた父親の懐に飛び込ませるようなものです。子どもは思いきって飛び込みますが、それは父親が受けとめてくれると信頼しているからで、子どもに求められることは決心だけです。
❷科学と信仰、また知性や理性と信仰は相容れないものと考えがちですが、認識とは、真の神を知るということです。真の神は、イエス・キリストにおいて、私たちの救いのために十字架に死に、復活されました。アブラハムは、その人生の節目節目で、神についての認識を神から示されながら、ついにイサクの誕生において、はっきりと、神はこういうお方であると知るに至りました。それを告げられたとき、二人が笑ったのは当然のことです。私たちの知性、理性からすればありえない、不可能なことであって、むしろ二人は健全な知性を持っていたと言えます。しかし、事実イサクは誕生ました。それは神話や空想物語でも創作したものでもありません。事実、その子孫からイスラエル民族が興りました。この民族の出発点を考えると、どんなことがあっても彼らは滅びない神の民です。600万のユダヤ人を虐殺したナチスは滅びても、この民族は今も存在しています。まさにイサクの誕生は、聖霊によって身ごもり、処女マリアから誕生したイエスを予告しています。イサクこそイエス・キリストを予告しているのです。
❸神への信頼と認識という信仰は、決して心の中で閉じこもるものではなくて、かならず公共において現わされます。神は天に鎮座しているのではなく、具体的にこの世界に来られました。神は行動する神であり、御子イエスとして現れ、その業を成し遂げ、さらに聖霊として今も働いておられます。これが聖書が語る神であり、私たちが信ずる神です。だから神を信ずるということは、具体的に公共の場において現わされなければなりません。これが告白です。だから信頼と認識だけで告白がないのは信仰ではなく、告白と信頼があっても認識がまちがっていれば、とんでもない信仰の行動が起こります。信頼と認識と告白はセットなのです。
 しかも十字架に死に復活した真の神を知り、この神に信頼することは、今の自分が罪にまみれた古い人間であると気づいて、悔い改め、向きを変えて、この古い自分に死に、復活してまったく新しい人間として行動することです。イエス・キリストを信じる人は皆、自分は相変わらず古い自分ですが、神がまったく新しい人間に変えてくださり、自分では気がつかないけども、神ご自身が自分のしぐさや言葉や行ないを変えてくださり、それを見て周りの人が本物にふれて変えられる者とされること、これが告白に生きることなのです。
●信仰とは、決断と信頼、認識、告白で、信じるのは私です。しかし大切なことは、信仰の対象であるイエス・キリストに出会うことです。使徒信条を見ると、「我は~を信ず」と3回出てきますが、「我は~を信ず」という以外は沈黙しています。そして語るのは、信ずる対象である全能の父なる神(第1項)と独り子なる主イエス・キリスト(第2項)と聖霊(第3項)です。イエスに出会い、その言葉を聞き、信じるのは私です。しかし私の信仰は二番目であって、大切なことは私の信仰の対象であるイエス・キリストが私に出会い、語りかけ、信仰を授けてくださることであって、そのことを感謝したいと思います。
●世の中はいつも頑張れ頑張れです。もちろんこれは大事なことです。それによって私たちは成長し、進歩するからです。けれどもそのために頑張れない自分を赦すことができず、自分を責めてしまいます。自分を赦すことができない人は、かならず人を許すことができず、人を責め、人を追いつめてしまうことがおこります。
 プロゴルファーの中嶋常幸さんは、父の英才教育でゴルフのチャンピオンになりました。ところが父が死ぬと強度のウツになって、トップから転落していきました。その彼がやがて再起しました。なぜ復活したかというと、イエス・キリストのゆるしに出会ったからです。頭で知ったのではなく、すがりつくような思いでゆるしの実体に出会ったとき、彼は車を運転中でしたが、車を止めて号泣したそうです。なぜ父の死が彼をウツにしたのかというと、徹底的にきびしく叩かれたおかげでトップまでいったのですが、幼少期から叩かれて育った人は、叩かれることで自分の存在感を得るわけで、叩く人がいなくなると自分で自分を叩くことになるのです。なかなか気づかないことですが、中嶋さんのことは一例にすぎません。
 私たちは信仰のことさえも頑張ることだと思いがちではないかと思います。信仰とは頑張ることではなく、人生の本物を据えられるということです。イエス・キリストによってそのことを知ったとき、自分がゆるされていることを知るわけです。救いとは、自分が本当にゆるされていることを知って、自分で自分をゆるすことなのです。これはどんなに感謝してもしきれない神さまの業です。ですから私たちは、自分の信仰をあれこれ詮索するのではなく、私に信仰を起こしてくださった、また起こしてくださっている主に感謝したいと思います。

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