2021年11月21日 聖書:ルカによる福音書19章1~10節「救いが訪れた」茶屋明郎牧師

 新しい生き方が生まれる人生の転機のきっかけとなり、その一言がなければ、今の自分はないと思える言葉に出会う人が少なくありませんが、ザアカイにとって、まさに転機となり、新しい自分に生まれ変わるきっかけとなったのが、イエス・キリストの「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」という言葉でした。
 この言葉によって、ザアカイは生まれかわりました。すなわち、怒りや悲しみに沈んでいた心が、喜びと感謝に代わり、見失っていた神の愛に気づき、自分中心から他者のために喜んで生きる人に新生しました。まさに救いが訪れました。
 ここの箇所では、救いとは失われたものを取り戻して、本来の自己に立ち戻ることとしての説明がなされていて、つまり、ザアカイも苦難などのさまざまな出来事によって、見失っていたところの本来の自己、つまり自分も神に愛され、祝福され、神と共に歩むアブラハムの子であることに気づくことが出来、他者のために生きることが喜べる本来の人間に立ち戻ることが出来たことが救いであるということです。
 この時、ザアカイは、同胞のイスラエル人にとっては敵のような存在であるローマによって雇われて、税金を取り立てる仕事をしていて、このことがイスラエル人たちから顰蹙を買い、憎まれ、罪人として差別されていました。
 このような中で、ザアカイは寂しい思いや悲しみ、そして怒りと憎しみを抱きながら生活をし、神など信じられない、自分しか信じられない、ただ自分のためにだけ生きるしかない、そのために金を稼ぐしかないという思いで生きていたのかもしれません。
 そんなザアカイを新しく生まれ返させた、イエス・キリストの言葉にはどんな思いが込められていたのでしょうか。
 一言でいえば、愛の心が豊かにあふれている言葉でありました。つまり、相手に何かを求めたり、何か良いものがあるのを捜したりして、愛するようなものではなく、そうではなくて、存在そのものをそのまま受け入れ、大事にし、かけがえのないのとして愛する、皆どんな人もアブラハムの子であり、神に愛され、祝福されている存在であるとして愛する、一方的に慈しむ慈しみであり、憐れみの心でした。
 ザアカイは大きな愛の力を感じて、こんなことは今まで経験したことがなかった、私のような小さなものに暖かい言葉をかけてくれる人はいなかったと非常に驚き、見失われていた、自分もアブラハムの子であることに気づき、神なしでは生きてはいけない存在であることと悟り、本来の人間の姿に変わり、他者のために生きる事を喜べる人間に生まれ変われたのでした。
 この驚くべき神の恵みはすべての人に与えられている。このことが自分においても実現していると確信できるかと、ザアカイの救いの出来事、ザアカイの新生は、私たちに問いかけています。
 
 

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