2022年3月27日 聖書:マルコによる福音書9章2~10節「主の変容をみる」世良田静江牧師

時々、説教の中でも申し上げて来ましたが、聖書を読む時、イエス様の歩くお姿、語られる言葉、病人を癒される場面など、その書き記された事柄を、字面を追って読むだけではなく、その背後の情景に思いを広げて読むことの大切さを思います。特に4福音書を読む時は必要かと思うのです。私は時々、説教をノートに記す時、ガリラヤ湖畔を歩かれる主のお姿を想像すると、一緒に主イエス様と歩く自分を幸いであると思うのです。さて、本日の箇所は以前、山上の変貌と言われましたが、形ではなく全てが変わるのですから「変容」だと思うのです。この山上の変容は何を言いたいのでしょうか。イエス様の死、そして復活を論じ合う三人の弟子たち。主は多くの苦しみを受け、捨てられ殺されて三日目に蘇られると。ペトロは「そんな事を言ってはならない」と主を諌めます。「あなたは神のことを思わず、人間のことばかり思っている」と主は言われます。ペトロは山上の変容を見れば「ここに仮小屋を建てよう」と即座に言います。私たちは地上でどんなに素晴らしい尊敬や業績、聖霊体験して誇ることが出来ても、とどめておくことはできません。今、山上で起こったことはやがて神の国が来る時、実現される予表にすぎないのです。この山上の変容を読みますと、私たちはここに留まりたい、いつまでも主の栄光に浸りたいと希います。しかし山を降りれば現実の様子はどうでしょうか。この光景はまた、今を生きる私たちが問われている現実の姿なのです。雲湧き立つ中で、イエス様とモーセ、エリヤのお姿、その端に自分もいる。輝かしいお姿です。この後、主の十字架のお姿は言葉で語れない悲惨さ残酷さがあります。今、この受難節を生きているのです。
※宮田教会のあたたかいお心遣い、心より感謝しています。ありがとうございます。謝謝・カムサハムニダ・Thank you・メルシー・・・・・。

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