2022年4月3日 聖書:マタイによる福音書22章34~40節 「神に愛されているからこそ」 川本良明牧師

●自然界も世界も絶えず変化していますが、昔から変わらないのは戦争であり、戦争の歴史です。歴史観には唯物史観や皇国史観、民衆史観や英雄視観など様々ありますが、「歴史とは、人間が人間に成ろうと努力した足跡である」と言った人がいます。人類が平和になろうとして何らかの掟を定めてきたのは、人間に成ろうとする努力の表われだと思います。(人間は動物のようにエサを食うのではなく食事をします。少ない食物を分け合うために土器を作りました。)日本でも古代から石器、銅剣あるいは鉄剣で殺し合う一方で、しきたりによる規制や文字の使用、十七条憲法の制定、さらに律令という高度な掟と仏教の普及によって秩序ある社会をめざしたのも、人間に成ろうとしたことの現われではないでしょうか。
●本来私たち人間は、天地の造り主である神の被造物です。神の良き作品として、お互いに喜びと平和に生きる者であるはずなのに、いつも国と国は対立し、民族と民族、人と人の争いは絶えないし、暴力と戦争、征服と支配をくり返しています。加えて心痛むのは、自分で自分を憎み、傷つけ、病気になって苦しんでいることです。しかもこうしたことがなぜ起こるのか、その根源的な原因を見出せないままに歩んできたのが、人類の歴史の現実であろうと思います。
●聖書は、この悲惨な歴史の現実を、人間に対する神の断罪であると語っています。しかしまた、得体の知れない運命や輪廻や因果応報ではなく、神の断罪であって、世界が神の手の中にあること自体が福音であるとも語っています。
 聖書を読むと、たしかにきびしい神の断罪が語られています。しかし、このような世界を憐れみ、本当の平和をもたらすために、神は人類の中からアブラハムを選んで、その子孫としてユダヤ民族を興し、人が人として人らしく生きるための掟を授けられました。(「人が人として人らしく」は、その一生を在日の人たちのために尽くしたマッキントッシュ先生の聖書から読み取った言葉です。)この掟を特別に律法と呼んでいるのは、ユダヤ民族に授けたこの掟が、どの民族も生み出すことのできない、掟の中の掟、人間が人間に成るための最善の掟だからです。(交読詩編に選んだ119編には、律法、主の定め、主の掟が繰り返し語られています。)
●この律法には2つの面があります。1つは、造り主なる神に対して守るべき掟で、これが世界のどの民族も持っていない掟です。この掟によって神は、人間が神を憎み、敵対し、神に無関心であることを暴露し、平和に生きる道と平和に生きれない理由を示されました。もう1つは、神の作品である人間同士が守るべき掟です。
 この<神に対して守るべき掟>と<人間同士が守るべき掟>は、単なる条文ではなくて、具体的に神がユダヤ人の一人ひとりに関係している掟です。だから律法全体がこの民族の歴史を形成したといえます。律法の専門家から、<律法の中で、どの掟が最も重要ですか>と訊かれたイエスが、<律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている>と答えているのは、それと同じ意味です。
●この2つの掟をイエスは、神に対する掟として<心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい>を、また人間に対する掟として<隣人を自分のように愛しなさい>を語り、この2つが最も重要であると言われました。ですから少し理屈っぽくなりますが、注意深く見てみたいと思います。
 じつはこれはそれぞれ申命記6:5とレビ記19:18を引用しています。この中の「愛する」という言葉は、どちらもヘブライ語のアハブ(愛する)が変化したアハブッターという言葉です。これを日本語に訳している代表的な3つの聖書を見ると、口語訳聖書は、申命記もレビ記も義務を意味する「愛さなければならない」とあり、また新改訳聖書と新共同訳聖書は、申命記もレビ記も命令を意味する「愛しなさい」とあります。義務であれ命令であれ、要するに3つともアハブッターを、「愛するべきである」と訳しているのです。
●ところがもしイエスがこのように語ったとすれば、律法の専門家と同じ律法理解であって、どうも腑に落ちません。なぜならイエスは様々な譬え話を語っています。たとえば労働者を夜明け、9時…、午後5時に雇ったぶどう園の主人が、夕方雇った労働者に朝雇った労働者と同じ賃金を、それも最初に払う譬え話をしています。また放蕩の限りを尽くして我に返って帰ってくる息子の姿をはるか遠くに見て、走り寄っていき、ぶつぶつ言っている息子の過去の一切を問わないで抱きしめる父親の譬え話をしています。また譬え話だけでなく、イエス自身が、父なる神を「アッバ父よ」と親しく呼びかけ、ゲツセマネの園においても最大な愛の表現で神に訴えています。また御自分を3回も裏切った弟子に対して、イエスは、復活して再会したとき、「私を愛するか」と3回語りかけ、愛の絆を固くしています。
 ですから数多くある譬え話を見、またイエスご自身の生きかたを見たとき、そのイエスが神を愛し人間を愛する掟を語る場合、強制や義務や要求など考えられず、その愛は、自由な間柄において生まれる愛であると思わずにはおれません。
●ところが福音書を見ると、「神を愛する」と「隣人を愛する」の「愛する」はどちらも同じギリシア語アガパウォ(愛する)が変化したアガペーセイスという言葉です。これをあの3つの聖書は皆、「愛せよ」と命令形で訳していますが、しかしアガペーセイスは2人称単数の未来形であって、「あなたは愛するであろう」というのが正しい訳です。じつはユダヤ人もあのアハブッターをアガペーセイスと訳しているのです。ユダヤ人は、前3世紀半ばから二百年以上かけて旧約聖書をギリシア語に翻訳しました。これが七十人訳聖書で、新約聖書に出てくる旧約聖書の言葉のほとんどはこの聖書からの引用なのです。この中で先に紹介したアハブッターはアガペーセイスと訳されています。
 このように申命記もレビ記もそれを引用している福音書も皆、「あなたは愛するであろう」という未来形ですから、「愛さねばならない」とか「愛せよ」というのは致命的な誤解に基づいた誤訳なのです。しかし私たちはどうでしょうか。
●そこでイエスの前に律法の専門家と同じ席に座って、イエスが申命記6章5節を語るのを聴くならば、そのとき私たちは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神を愛することなど私たちにはとてもできません」と、正直に認めざるを得ないのではないかと思うのです。なぜならイエスは、愛する父なる神を指し示しながら、<あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、私の父である神を愛するであろう>と言われるからです。ですから安心して、「私にはできません」と告白し、悔い改め、「主よ、どうか助けてください」と願う私たちにイエスは、「私の父はあなたをそのようにして下さる、神は造り主であり、神への愛を人の内に創造されます、神にできないことはない」と言われるのです。
 これはまさに神が預言者エゼキエルを通して語った約束の言葉です。<私は彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。私は彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える>(11:19)。この「新しい霊」とは聖霊であって、聖霊こそ愛を生じさせ、私たちを自由に愛する者としてくださるのです。
●律法を考えるとき、絶対に聞き逃してならないのは、<私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである>(マタイ5:17)というイエスの言葉です。そしてイエスはこの言葉どおり、そのことを成し遂げられました。すなわち十字架の死に至るまでイエスは父なる神を愛し抜かれました。また人間の罪を贖い、永遠の命にあずからせるためにその命を捨てられました。それほどまでにイエスは人間を愛されました。この苦難の死において、あの2つの掟を守り抜かれたイエスは、復活し、聖霊として天からくだり、イエスを信じる者には、<あなたは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛し、隣人を自分のように愛するであろう>と言われた約束を実現して下さるのです。
●「それほどまでに私たちを愛された」と言いましたが、それは客観的な言葉ではなくて、「それほどまでに私たちは愛されている」ということです。私たちは「どれだけ愛したか」ではなく「どれだけ愛されたか」が大切です。愛されるに値しないこんな私をあるがままにイエスは愛して下さっている。このことを受け入れるとき、愛することが始まります。
 信仰生活で最も大切なのは、このイエス・キリストにおける神の愛を知ることです。また信仰生活を最も妨げるのは「ひがみ」です。これは天を見上げず、横並びに人と自分を比べて起こります。もしそれが起こるときには、すぐにイエスさまに目を向け、仰ぎ、イエスさまがどんなに自分をかけがえのない者として愛しておられるかを知ることです。
●最後に一言。福音書にはイエスが尋ねられる場面があります。中でもファリサイ派や律法学者が権威についてや皇帝への税金、復活や律法について問うています。それは皆、イエスを罠にかけようとして尋ねているのですが、しかし尋ねる側の魂胆がどうであれ、イエスは喜んで聞き、答えていることに注意したいと思います。
 律法には、<将来、子供が、「神様が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、こう答えなさい>と繰返されています。12歳の少年イエスが神殿で学者たちと問答している場面など、何か生き生きとしています。イスラエルでは、神の言葉を自由に尋ね、自由に答える雰囲気がありました。<二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる>と約束されています。「私」とは聖霊のことです。つまり、み言葉をお互いに問い、探るときに聖霊であるイエスが働かれるのです。聖霊はじーっとしていて天から降るのではありません。独り聖書を読んで問い、自由な関係の中で問い合うときに聖霊が働いてくださることを信じ、あらためて感謝したいと思います。

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