2022年4月10日 聖書:マルコによる福音書9章33~37節「世の中の価値とは」豊田護兄

 この聖書の箇所では、弟子たちは誰が偉いかを論じています。
「偉い」とは何でしょうか。そしてそのことに意味はあるのでしょうか。
世の中的に言えば、総理大臣、大会社の社長、お金持ち、大学の先生、と言うところですが、この人達は本当に偉いのでしょうか。
権力を持ち、財力があり、豊かな知識を持っている、それが偉いのでしょうか。逆にお金も権力も知識もない普通に暮らしている人たちは偉くないのかと言う問いが出てきます。
 毎日畑や田んぼで働く人、工場や色々な現場で働く人たち、毎日新聞や郵便を届けてくれる、多くの暮らしを陰でささえているひとたちは偉くないのでしょうか。

 昔人権の仕事をしていた時に、たくさんの学校で、障がいを持つ生徒の受け入れと理解の為に話をしました。

 人は頭が良くて成績が良い事がいいのか、身体能力すぐれスポーに優れていることがいいのか、背が高くハンサムなのがいいのか。では成績も悪く、足も遅くスポーツは苦手で、背も低くハンサムでない人はダメなのでしょうか。もし今からの帰りに階段で転んで脊椎をいためたら、君は歩けなくなり、寝たきりになるとしたら、きみはダメな人なのか、
人は年老いて寝たきりになる。自分の延長には「障がい」があり、それは特別の事ではないのです。

 私の友人に、寝たきりで一人で暮らしている人がいます。アンパンと演歌が好きで、昔まだ自分一人で歩けたときは、よくコンサートにも来てくれていました。今でも行きたいからバリアフリーの会場にしろと先日言っていました。僕は誰よりも彼を尊敬していますし、偉いと思います。

 世の中の価値とはあまり意味はありません。頑張って生きている人が偉いと言う当たり前のことがこの聖書に書かれているのではないでしょうか。

聖書のお話