2022年4月17日 ルカによる福音書24章25~35節 「新しい時代を迎える」川本良明牧師

●今日はどの教会でもイエス・キリストの復活を覚えて礼拝しています。そのもとは聖書にあります。福音書の終わりには皆、復活の出来事を書いているからです。「キリストは十字架にかけられて死んだけど、その三日後に墓から甦えりました」と中学生たちに話すと「何で成仏せんかったん」と言われました。「人間死んだら皆、極楽か地獄に行くのに、まだ地上をうろついてるのは何でや」というわけです。
 子どもの時から私たちは皆、宗教の中で生きています。また例外なく死を避けることはできません。そして死の絶対的な力を和らげようとして働くのが宗教ですが、どの宗教も、「肉体は死滅し魂は生きる」と考えています。
●しかし聖書は、<神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた>(創世記2:7)、<塵にすぎないお前は塵に返る>(同3:19)、<塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る>(コヘレト12:7)と語っているように、人間を肉体と魂に区別はしても不可分の全体と見ています。肉体と魂はニカワのようにくっついて1つであり、生きるのも死ぬのも全体なのです。
 だからイエスは完全に死んだのであって、もう二度と帰って来ないし、イエスと永遠の別れになった弟子たちにとって、その絶望は測り知れません。
●ところがその同じイエスが、復活して現れたとき、あまりの衝撃を受けた弟子たちが、<恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った>(ルカ24:37)、<震え上がり、正気を失った。>(マルコ16:8)のは当然だと思います。
 しかし、どれほど衝撃的であったとしても、私たちは、イエスの死と復活の出来事を見すえることが求められています。十字架上で叫んで死んだ愛する子イエスを、父なる神は甦えらせました。そのイエスが今、二人の弟子に近づき、語っているのが先ほどお読みした聖書の個所です。
 イエスが死んで三日目のこと、二人の人がエルサレムから約11㎞離れたエマオ村に向かっていました。そこへイエスが近づいて来て、「何を熱心に話しているですか」と尋ねました。「えっ、都で起こったことを知らないのですか!」「どんなことですか。」……そこで二人はここ数日間に起こったことを長々と語りました。
 「ナザレのイエスは力ある預言者で、この方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかし祭司長たちや議員たちが十字架につけて殺したのです。ところが3日目になって墓へ行った婦人たちが、《遺体がなく途方に暮れていると、天使が現れて『イエスは生きておられる』と告げた》と言うのです。それで仲間の者たちが墓へ行ったところ、たしかにあの方は見当たりませんでした。」
●これを聞き終わったイエスは、<ああ、なんと愚かで、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか>と言われました。
 このきびしい言葉は私たちにも向けられています。私たちは、復活したイエスに出会って驚愕したかつての婦人たちと同じように驚愕できないでいます。洗礼へと導かれ、キリストの死にあずかって、宗教の中に生きていた古い自分に死に、またキリストの復活にあずかって、新しい命に生きる者であるのに、再び古い肉の自分に戻り、空しい罪と虚無でしかない宗教の中に生きているのではないでしょうか。
●そんな私たちを、罪と死に勝利して復活したイエスは、いつくしみ深い目で見つめ、2人の愚かさや鈍い心を意に介せず、<メシアは苦しみを受け、栄光に入るはずだった>ことを、懇切丁寧に、<モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれている>ことを説明されたのでした。
 聖書全体にわたって、キリストについて書かれていることを簡単に言えば、まず「メシアの苦しみ」とは、キリストが十字架にかかって死んだのは神の意志であったこと、イエスは父なる神の意志を成し遂げるために死んだということです。また「栄光に入る」とは、そのイエスが成し遂げたことを、全面的によしと認めたことを示すために、神はイエスを復活させたということです。
●ですから神は、人間の罪に対して判決を下し、その裁きを、すべての人間に代わってご自分の御子において執行されました。また神は、人間の罪を贖うために、すべての人間に代わってご自分の御子を犠牲の小羊とされました。また神は、欲と罪に陥らせ、死をもって脅かしている悪魔から人間を救い出すために、十字架の死に至るまで従順にご自分に従って戦う御子において、悪魔に勝利されました。そして神は、父なる神と子なる神とを愛において結びつける聖霊なる神によって、すべての人を隔てなく限りなく愛し、またすべての人がご自分を自由に愛するという、愛の交わりを成し遂げてくださいました。
●<聖書全体にわたり説明された>とありますが、一方的にイエスが語ったのではなく問答したと思います。ですから聖霊の働きによって2人の心は燃えたのでした。しかし、なおも先へ行こうとされるイエスを無理に引き留める彼らの心から、その炎は消えました。それは彼らが主人となり、イエスを客人としたからでした。
 けれども彼らの勧めを受け入れて泊まったイエスは、<食事の席に着くと、パンを取り、賛美の祈りを唱え、それを裂いて渡しました>。まさにイエスが主人となったとき、2人はハッとしました。そして姿は見えなくなりましたが、道で近づいて来た人、聖書を丁寧に説明してくれた人、たった今一緒に食事を共にしていた人、その人がイエス・キリストであることに気づいたのでした。
●しかしそれは特別に何か新しいことをしたのではなく、聖餐の場面が再現されたときでした。聖書の説明を聞いたときも感動しましたが、今はそれ以上でした。まさにイエスご自身に直接出会った今、目は開かれ、心は燃え、暗い顔も消えた2人は、食事もそこそこに都に向かい、11弟子と仲間たちのところに戻ったのでした。そして2人が何よりも報告しなければならなかったことは、<道で起こったこととパンを裂いて下さったときにイエスだと分かった>ことでした。
 その報告を聞いた一同は、「新しい時代が来た!」と実感しました。それは時代だけでなく、教会にも個人にも該当します。パウロは語っています。<だれでもキリストにあるならば、その人は新しく創造された者です。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなりました!>(Ⅱコリント5:17)と。
 今日、イースターのこの日、私たちもまた新しい時代に向かって、キリストにあってすなわち聖霊の働きにあずかって、新しく創造された者として、この一週間を歩んでいきたいと思います。

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