2020年4月24日 聖書:ルカによる福音書24章13~35節「驚くべき出来事」茶屋明朗牧師

 世の中には、様々な驚くべき出来事がありますが、復活もその中の一つです。
復活という言葉が、復帰する、つまり、病気などで休止していた活動や仕事を再び再開し、挫折や絶望を乗り越えて、立ち上がり、希望をもって生きて行く場合などに使われることがありますが、聖書が伝える復活は、死人からの復活であり、イエスの復活のことです。
 聖書は、「十字架につけられて、死んで、墓に葬られるイエスが、三日目によみがえれ、新しい、霊の身体に復活されたこと、今日まで一回だけ起きている出来事のことである」と伝えています。
 この復活を信ずる者にとっては、希望であり、大きな喜びで、豊かな慰めになります。
しかし、反対に、この出来事が、どんなにたわごとであり、ばかげたことであると思えることか、キリスト教に躓く最大なことになっています。
このような中で、復活が起きたことの最大の証になっているのが、弟子たちの新生です。すなわち、弱弱しく、愚かであった弟子たちが、見違えるようになって雄々しくなって、命がけで、「十字架につけられたイエスは復活した。復活したイエスが私たちに現れた」と伝えるようになったことです。
この弟子たちの変貌は、復活は、弟子たちの錯覚であり、幻想であり、作話である、だから事実ではないという主張を否定できるし、復活をばかげたこととして否定することは、この世において最も大切な、重要な価値ある真理を知らずに、一生を終えることになり、致命的な損を被ることになり、決定的な形で人生の尊い宝を手にすることが出来なくなるし、真の希望と新しく創造されるという恵みを失うことになるのではないか、そうあってはならない、と強く訴えています。
失意のうちに旅を続けていた二人の弟子たちが、近づいてこられ、共に旅する人が蘇ったイエスであることに気づき、心が熱くなったのは、祈りを捧げ、パンを裂き、聖書の解き明かしを受けていた時でありました。
復活したイエスに出会うことによって、弟子たちは、真にこの世を支配しているのは、イエスを遣わした、創造主なる、活ける神である信仰に生きることが出来、勇気ある、愛の人に創造されていきます。
私たちが復活のイエスに出会うために必要なことで確実に言えることは、聖書に親しみ、祈りを捧げ、聖餐にあずかる、礼拝を捧げていく場所に居続けていくことであり、そこで、私たちは生まれ変わることが出来、そこで希望と勇気と喜びを与えられていく、復帰できる力と知恵を得ていくことが出来るのではないか。

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