2022年5月15日 聖書:Ⅰコリント15章42~44節 「愛の主を見すえ、死を覚えて生きる」 川本良明牧師

●パウロがエフェソにいた時、コリントの教会で党派争いや不品行、裁判沙汰、結婚問題、偶像の供え物の問題、貧者と富者の対立などが起こっていることを知って送ったのがⅠコリントの手紙です。その内容は、14章まで教会の問題を1つ1つ取り上げて警告また勧告した後、15章で死者の復活について詳しく述べ、最後の16章で今後の計画や挨拶などを簡単にふれて終っています。
●その中で際立っているのが15章です。彼がこんなに長く復活のことを語っているのは、直面している諸問題とは別に復活の問題を取り上げるためではありません。教会がこんなひどい有様になっているのは、教会にとってなくてはならない中心的かつ根本的なことを見失っているからであって、それはイエス・キリストの死と復活を見すえることであるという熱い思いがあったからです。
●説教題の1つに<死を覚えて生きる>とあるように、4月のイースター以来、死について取り上げてきました。私たちは、復活して死に勝利した救い主を信じているので真正面から死に目を向けることができます。しかし一般にはどうでしょうか。~つひにゆく、道とはかねて、聞きしかど、昨日今日とは、思はざりしを~ これは平安初期の在原業平の歌で、遂に行く誰もが最後に通る道とは以前から聞いていたけども、まさか自分にとってそれが昨日今日とは思わなかったと、切羽詰まって歌っています。このように日頃は死を避けていますが、どんな人も忘れて逃げようとしても逃げられないのが死です。
●聖書は、創世記1章で神が世界を創造されたと書いています。そして、光から始めてさまざまなものを造り、最後に人間を造ったとあり、しかも何度も「良しとされた」と繰返しています。私たちは神の作品であって、神は私たちを喜びと平和の中で良き人生を送るように造られたと言うのです。それなのになぜ限りある命なのでしょうか。これは大きな難問であって、神は私たちを良き作品として造りながら、なぜ恐怖に陥れる死を迎える存在とされたのでしょうか。
 私自身、4才のとき、自分が限りある存在であるとの自覚が起こり、固くなりました。それ以来度々死の恐怖に襲われるたびに、不安の中で身じろぎせずにそれを凝視させられて来ました。
●これに対して聖書ははっきりと答えています。神は、孤独ではなく、愛においても完全であり、被造物など必要ないはずです。それなのに神とはまったく別のものを創造されたのは、神の栄光を現わすためでした。天と地は神の栄光を現わす舞台であって、私たちは神の栄光を現すことが目的で造られているのです。にもかかわらず神を無視し、好き勝手に生きている私たちは、与えられた時間の中で行なった全てのことを終わりの日に問われ、裁かれると聖書は語ります。好き勝手に生きていることを罪といいますが、欲がはらんで罪を生み出し、罪が熟して死を招いています。つまり死とは「神の裁きのしるし」なのです。
●これは体にも関係します。私たちは肉体と魂の全体として命を与えられていますが、罪の支配下にある体は、腐れ朽ちる肉の体となり、神から永遠に捨てられるガラクタとなりました。これについてパウロは、<被造物は虚無に服している>と語っています。しかし続けて、<それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています>(ローマ8:20)と、じつに慰め深い言葉を語っています。
 私たちが永遠に捨てられる肉の体となっているのは、運命とか自然の定めとかではなく、まして輪廻でもなく、神ご自身の意志によるものである、だから、もしもこのような私たちに、また虚無に服している全被造物に、希望があるとするならば、そこには神の尋常でない力が介入したとしか言えない、とパウロは言っています。その尋常ならざる神の力を彼は示されました。だから彼は確信をもって希望を語ることができるのです。
●その神の力を示されたのが、よく知られているダマスコにおいてでした。彼は熱心なユダヤ教徒として教会を迫害するためにダマスコに向かう途中、天から光が照って打たれました。その光の中で、<サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか><そう言うあなたはどなたですか><あなたが苦しめているイエスだ>という声が静かに聞こえてきました。これが、彼が尋常ならざる神の力に打たれた時であって、これ以来、パウロはイエスの復活を微塵も疑うことはありません。
●そして彼は、なぜイエスは十字架に架けられて死んだのか、なぜ復活したのか、このことを深く示されました。すなわち神は御子イエスの死において、私たちの罪を私たちの代わりに裁かれて、裁きのしるしとしての死を滅ぼされたのであり、肉の体は十字架に付けられたイエスと共に死んだのです。そしてイエスを信じるならば、霊の体に復活したイエスと共に生きることをパウロは知ったのです。ですから彼は、今日お読みしたⅠコリント15:42~44において、肉の体から霊の体に変えられる希望をはっきりと語っているのです。
 ただし、サナギが蝶になるのは、復活そのものではありません。復活のしるしであって、蝶はサナギの命の延長にすぎません。復活とは、完全に死んだ後、神の力によって甦えらされることなのです。
●イエスが十字架上で死んだ罪の裁きの死、永遠に捨てられる肉の体の死、これを聖書は、「第二の死」と呼んでいます(黙示録2:11など)。第二の死に対する第一の死を自然死と呼んでもいいと思います。イエスが、<私は甦えりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる>(ヨハネ11:25)と言われた死は第一の死です。また<死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか>(Ⅰコリント15:54~55)とパウロが語った死は第二の死です。
●今やイエスを信じて、恐るべき死を後にして自然死を迎えることが許される私たちは、誕生を神の祝福として迎えることができます。また仏教が語る生老病死の四苦や八苦など様々な苦難がありますが(私の尊敬する牧師が作った「四苦八苦、九九のよわいを重ね来て、苦労苦にせず食うてくたばれ」を思い出します<笑>)、これまで苦難を死の予感と思っていたのが、命は限りあるものと自覚させ、永遠の命を予感させるものと思うようになります。そして私たちの肉の体も、聖霊が住んでくださり、霊の体に変えられることを信じ、今を永遠の命に生きる者とされることを喜びたいと思います。
●今述べたすべてのことは、偶然や運命や自然の定め或いは人間の力や可能性によるのではなく、イエス・キリストにおける神の究極の苦しみのおかげであることをあらためて覚えたいと思います。創世記1章の創造物語の中で、神は世界を創造されると祝福されたとあります。祝福とは額ずくという意味の言葉です。全能の神はお造りになったすべてのものに向かって額ずかれました。神は人間イエスとなって、そのことの意味を示されました。それがイエスが腰をかがめて弟子たちの汚い足を洗ったことなのです。この忘れられないイエスの行為を聖書は、<イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、最期まで愛し通された>(ヨハネ13:1)と書いています。
●神はイエス・キリストの死によって、私たちの罪を贖い、第二の死を滅ぼし、私たちを死の恐れから解放し、霊の体として永遠に生きる約束をされたことを、これまで見てきましたが、その根本に流れている水、またはすべてを照らしている光は、神の測り知れない愛であることを見すえたいと思います。
 「神の愛」から考える時、私たちの罪を贖ったとは、自分を責め、自分を赦すことができない私たちを神は和解して下さった、それは同時に自分との和解を起こされるということです。また肉の体から霊の体に変えられるとは、自分を憎み、自分と対立しているがゆえに人と対立していることから、自分を愛し人を愛する者に変えられるということです。そして死の恐れから解放されたということは、人生が虚無ではなく、永遠の希望に生きる目的を与えられているということです。その出発点こそ神が私たちを大切な存在として扱われる測り知れない愛なのです。
●ナチスを逃れて米国に渡り、戦後精神科医として活動した E.フロムは、危険と分かってもそうせずにはおれない暴走行為の若者たちや理由もないで反抗する若者たちを診て、<富める貧困>と言われる社会の病巣を鋭く見ぬいて、「みんな I love you、I love you と言ってるけども、実際は I am loved you、I am loved you と言って、愛されることを願い、愛することができないで孤独になっている」と指摘し、「人は愛するよりも、愛されるためにどうしたらよいかと努力している」と語っています。そのことは今の私たちにも言えるのではないでしょうか。
 もし人が一番欲しいもの、願うものと言えば、美味しいものを食べる、着る物、旅をする、学ぶこと、健康などいろいろありますが、何よりも欲しいものは、自分がどんなに大切な存在だということが、皆からも認められ、自分でも感じること、つまり、みんな愛を一番求めているのではないかと思うのです。
●私自身、立派な人格者になろうとして、聖書の掟を実践しようとしました。しかし挫折します。挫折すると這い上がり、滑り落ちてはまた這い上がります。それを繰返しながら、それができない強い劣等感の中で自分を責め、赦せないために人との関係も破れに破れていき、大学生が五月病になったのと同じ無気力になっていき、極まったとき、<神は愛なり>(Ⅰヨハネ4:16)というみ言葉を聞きました。それを1人祈っていた時に聞いたとき、後ろから温かい大きなものを感じて、「そのままでいいんだよ、ちょっと後ろをふり返りなさい」という囁くような声が聞こえたのです。「囁く」の3つめの耳は聖霊だと思うのですが、「私は愛である。私はあなたをそのままで愛している」ことを知ったとき一変したわけです。神の愛にふれることは人それぞれですが、私の場合はこのような経験でした。
●とは言っても、今でも愛せない自分に苦しむわけですが、しかしそのときに何よりも大切なことは、愛の主を見すえることです。見すえるとは、正直に自分をイエスにさらけ出すことです。そんなあわれでガラクタのような自分、惨めな自分を人には見せたくない、ぜったいに自分も認めたくないのが私たちではないでしょうか。けれどもそんな私たちに命を与えた神が、人間イエスとなって、額ずいて、「それでいいんだよ、つらかっただろうね。一緒に行こう」と言われます。この愛の主に生かされ、愛に生きる一週間を感謝して歩みたいと思います。

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