2012年4月15日 聖書:ペトロの手紙一1章3~9節
「生き生きした希望」 牧村元太郎牧師

「神はゆたかな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中が
のイエス・キリストの街活によって、生き生きとした希望を与え・・,」
ここにはイェス・キリストの復活を受け入れた者に神から与えられる新しい人生について語られています。それはイエス・キリストの復活に裏付け
れた生きた希望、つまり、ただの憧れとか和達の描く夢とか抱く望みではない、もう迫ってきて実現しようとしている神の国へのリアルな希望です。主の復活を信じ受け容れるとき、私たちは、そのような希望に向って新たに生まれるのです。人はこの世において、安定したリッチな生活や地位を求めたり、知識や知恵や力を求めて、色々な希望を抱きますが、思うように得られないこともあり、得られても、失ったり奪われたりするものです。 それに、どんな人も最後に迎える死の前には、何の意味もなくなってしまうものです。だから、死に対して神が勝和してくださった主イエス・キリストの復活を受け容れないなら、死がその人を究極のところ支配しているのですから、その人は究極的には、希望をもっていません、絶望の人生あるのみです。しかし、主の復活を受け容れるとき、人は古い絶望の人生に死んで、確かな希望に向って新しく生まれるのです。その希望は、世の望みとは違って、 神が私たちのために天に蓄えている 「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を相続する」望みです。この世の私たちの生は死んで朽ちていきます。それは罪
深く神の清い愛から離れて自分の欲や人への敵意で汚れています、どんなに栄えているようでも、やがてしぼんでいきます。しかし、神は、私たちのために、神に直結して朽ちることのない命と、罪を取除かれた汚れのない、
決して汚れることのない神に与った清い存在を、そして、決してしぼまず、
過ぎ去らない永遠の輝きを、私たちのものとして用意して下さっているのであり、それを与えんと私たちを定めてくださっているのです。主イエスの死を朽ち行くわが罪の身の死として受け入れ、そのわが身を離れて、主の復活をわが身の新しい命の始まりとして信じて歩み始めるとき、私たちにそのような生きた希望に生きる人生が始まるのです。確かに私たちは弱い何
です。誘惑に負けてしまいやすいものです。ともすればその信仰から離れてしまうこともあります。そのような信仰を自分の力で維持することはできません、迫害を受けたり、病気に悩んだり、老いのために多くのことができなくなり、祈りの言葉すらでなくなることもあるかもしれません。しかし、大丈夫、その信仰を維持するのは、私たちの力ではなく、神の力であり、最後まで神の力によって、私たちは守られているのです。 

聖書のお話