2016年5月8日 聖書:哀歌3章18-33節      「心が騒ぐ時には」  鈴木重宣牧師

『哀歌』
 ヘブライ語でエーハーといい、『エレミヤの哀歌』とも言われている。内容としては、紀元前586年におきたエルサレム陥落とエルサレム神殿の破壊を嘆く歌であり、5つの歌が章だてて収められている。バビロン捕囚の時代につくられたものと考えられている。第5章の歌は厳密には嘆く歌でなく、民の祈りになっている。
「なにゆえ」
 日本語では「哀しみの歌」「嘆きの歌」という意味の「哀歌」と訳されているエーハーとは、もともとのヘブル語では「なにゆえ」とか「どうして」という意味です。哀歌の1章1節の書き出しにある、「なにゆえ、独りで座っているのか」にある「なにゆえ」というヘブル語が、エーカーという言葉です。つまりこの書は、書き出しの言葉のエーカー、すなわち「なにゆえ」と呼ばれてきました。が、日本語に翻訳するときには、「なにゆえ」では、あまり意味が通じないため、その内容から、「哀しみの歌」、つまり「哀歌」と名付けられました。確かに「本日の聖書の個所は、なにゆえ3章の~」では締まりません。
文学的に整えられた5つの歌
 「哀歌」は哀しみを表す歌ですが、文章全体が文学的にきれいに整えられています。5つの歌で組み立てられており、一つの歌が1章ずつになっていると言いましたが、さらにすごい形式があります。各歌は、各節の最初の言葉が、ヘブル語のアルファベット順になっています。3章を除く各章は、22節になっています。この22というのは、ヘブル語のアルファベットの数で、アーからタウという言葉まで22文字になります。日本語でいうなら50音というところでしょうか。各章1節から22節までの各節の冒頭の文字が、ヘブル語アルファベットになっています(3章だけは66節、つまり22×3となっています)。おおざっぱに置き換えれば、日本で言う「いろはかるた」、雑に言い換えれば、あいうえお作文、でしょうか。2500年前の言葉の織りなし。すごいとしか言いようがありません。
 破戒と滅亡、苦難困難をまともに受け、絶望のどん底にある、そんな状態を表し伝えるための歌であるにもかかわらず、文学的にも冷静に、耳障りの良い整然とした形式で記されている。単なる、「哀しい、悲しい、やられた、悔しい、憎い」というだけのものであったらなら、2500年も読まれ続けることはなかったでしょう。悲しみにどっぷり浸かりつつ、その自分自身を客観的に見据え、「揺れ惑うこころ」と「落ち着き見据えるこころ」を持ち合わせ、神の前に自らを差し出している。「嘆きつつ、祈る」「畏れつつ、願う」。決して片方やただ一つの状態だけに落ち留まるのではなく、必ず他法、異なる次元を同時に保ち続けることの大切さが伝えられている。さらに言えば、人の感情とは、個人の所有、特有のものではなく、他者との共有、共感を伴うときにこそ感動につながり普遍に近付く、ということ。
 高村光太郎の『レモン哀歌』。レモンに例えられる様々な思いが、光太郎の心情の切なさや深さを読者に伝える。よい詩は、自己の感情に沈潜し、しかしそれに囚われず、染まらず、それでいてしっかりと見つめつつ、冷静に表現する。
 キリスト者としてはどうあるべきか。それは、自らの罪、苦境、悩みにしっかり向き合い、落ち込み、そここそを主にゆだねる。そのための祈りであり、賛美であり、聖書の学びです。「わたし」を強調するのではなく、神を中心に置く。それは、自己を客体化しつつ、客観視する信仰が不可欠になる、ということにほかなりません。 
 神と人とのつながりを願いつつ、人と人との交わりによって信仰を育てつつ、友なる共同体として歩みを進めていきましょう。

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