2016年6月5日 聖書:フィリピの信徒への手紙3章12節~14節  「目標目指して走ろう」  鈴木恭子牧師

「わたしは既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもなく、何とかして捕らえようと努めているのです。それは自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。ですから後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ神がキリスト・イエスによって上に召してお与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(3章12~14)と書かれています。これは何という慰めの言葉でしょうか。それは既にキリスト・イエスに捕らわれているからと言うのです。ただ私たちは過去に捕らわれず目標を目指して走りなさいと言われています。
 私たちは何か目標をもって歩んでいます。目標があるということは生きがいであり、幸せなことです。その目標は大きなものだったり、身近なものであったりしますが、パウロの言う目標、賞与とは、どんなものなのでしょう。
 エフェソ4章13節「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」とありますように、私たちクリスチャンが目指すものは、キリストのごとくなること、つまり、品性の完成、「朽ちない冠」「義の冠」「永遠の命」をいただくことです。
 そのために後ろのものは忘れ、前のものに向かって歩みなさいではなく、走りなさいと言っています。しかし、走る気のない人、途中で脱落してしまう人がいるでしようが、マラソンの目的は、最初から最後まで決められたコースを走りとおすことであり、ゴールに入った時、走りとおしたもののみが味わえる喜びがあります。
16節には、「私たちは到達したところに基づいて進むべきです。」とありますが、これは何という救いの言葉でしょうか。
 始め、喜んで教会に行き、聖書に触れ、興味をもっていますが、長くなると、この世の思いに捉われ、そのうちに退屈になり、あきがきて、人に躓き休んでしまう。その時、その人の霊的な成長は止まってしまいます。その瞬間にその人はそのレースを投げ出したのです。
 しかし、思い直して、それでも何とかして捕らえようとして走る時、既に捕らえられているから前進できるのです。そして到達したところに基づいて進めばいいのです。
 それが、「目標を目指して走る」ことなのでしょう。

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