2016年9月11日 聖書:詩篇 31章8-14節         「あなたはわたしの神」  鈴木重宣牧師

日本或いは世界のあちこちで地震や水害が頻発しています。一方で、ニュースでの取り上げられ方が変わってきたようにも感じます。自分自身のこころの問題なのかもしれませんが、少し、マンネリのような、新鮮みに欠けるような、どこか、「またか」というような気持ちになってしまっているのか、倒壊家屋や被災者、救援物資、捜索活動、医療状況、救助隊の姿、どれ一つとっても、何だかこころが動きにくくなっているような感覚が出てきます。唯単に押しつけられる情報に、人の心は飽和状態、拒否感すら感じつつ、満腹させられすぎているのではないかとすら感じます。地デジの電波やワウワウなど、チャンネルが増えて、情報がだだ漏れ状態になっていく。民法が70も80もチャンネルがあると、なにを見ていいのか、どこ見ていいのかわからない。超情報化社会の風に吹き飛ばされてしまうのではないかとすら思えてきます。
 適応機制、という心の動きがあるそうです。心にストレスを感じてしまうような状況に追い込まれてしまった時、心がパニックになってしまうと適切な対応や反応が出来なくなってしまいかねない、だから、なんでもないかのように、当たり前に冷静に反応し、喜怒哀楽もひっこんでしまう、心を押し込めてしまう、そんな状態でしょうか。適応機制にはいくつかのパターンがあるそうです。
・苦しく辛い現実から一時的に逃れる(逃避)
・もっともらしい理由をつけて自分を正当化する(合理化)
・他人や物を傷つけたりして欲求不満を解消する(攻撃)
・自分にない名声や権威に自分を近づけ、自分を高める(同一化)
・自分の不得意な面を他の面で補おうとする(補償)
・抑えられた欲求などを学問、スポーツ、芸術などに向ける(昇華)
・欲求や苦痛な体験などを心の中に抑え込んで忘れようとする(抑圧)
・子供のように振る舞って自分を守ろうとする(退行)
 先週も地震があり、水害のニュースも後を絶たちません。被害が大きくないことを願いながらも、あまり多くの詳細な情報を得たいと思えない自分がいることに気づき、ちょっとショックでもあります。
 詩篇は、捕囚に代表される民族的災難を経て、苦難の道を歩んだ民の声を反映した書物です。詩篇は、家族や友人、住まいや仕事を失った人々が、その喪失感の中でおりなし綴ったもの。分裂や侵攻、破壊や捕囚など、さまざまな「もうだめだ」と思えるような危機を経験し、しかもそのたび、滅ぼされる、死んでしまう、終わりになる、根絶やしになる、消えてしまう、を経験していき、そして、なお残されてきた人々の言葉です。
 「長生きはしたくない、親しい人を見送るばっかりになる、取り残されて孤独になる」と言われた高齢の方がおられました。生き残り伝える責任がより強まり、失った悲しみもさることながら、困窮するつらさもさることながら、孤独と不安の長期化が、特に心に重くのしかかっていくのではないかと思います。また、担うものが次第に大きくなり、反比例して担う力が小さくなり、さらにそれを引き継ぐ適当な相手が見つからない、見当たらない、そんなことも不安をさらに増大させることなのかもしれません。
 私たちの周りには、個人としての悩み、職場でのストレス、地域の抱える課題、教会の背負う苦難があります。多くの乗り越えられないくらいの困難を繰り返し、それでもなお詩篇は語り継がれ、読まれ続けてきました。なぜなら詩篇は、苦難の道を歩む中で、ただ苦難を表現するためだけのものではなく、その苦難の中にあってなお語り伝えられた希望の書物であるからです。なぜかといえば、「あなたはわたしの神である」と苦難困難絶望の中にあって、告白し続けることが示されているからです。
 困難さにただ負けるのではなく、人間を超える神の世界に身をゆだねるための、人間の出来うる信仰の適応機制、それが詩篇であり、その神の告白によって、私たちは言葉を発することが可能となり、それを受け取って下さる神の恵みによって、再び生かされることが出来るようになります。
 苦難、困難、まさに受難の日々を宮田教会は過ごしています。その道程にこそ神が伴って下さり、励ましと慰めを豊かに備えて下さいます。苦難にこそ感謝を持って向かい、艱難こそ喜びを持って迎えていく、そのような信仰を育てていくことを願います。 詩篇 31章8-14節 「あなたはわたしの神」

日本或いは世界のあちこちで地震や水害が頻発しています。一方で、ニュースでの取り上げられ方が変わってきたようにも感じます。自分自身のこころの問題なのかもしれませんが、少し、マンネリのような、新鮮みに欠けるような、どこか、「またか」というような気持ちになってしまっているのか、倒壊家屋や被災者、救援物資、捜索活動、医療状況、救助隊の姿、どれ一つとっても、何だかこころが動きにくくなっているような感覚が出てきます。唯単に押しつけられる情報に、人の心は飽和状態、拒否感すら感じつつ、満腹させられすぎているのではないかとすら感じます。地デジの電波やワウワウなど、チャンネルが増えて、情報がだだ漏れ状態になっていく。民法が70も80もチャンネルがあると、なにを見ていいのか、どこ見ていいのかわからない。超情報化社会の風に吹き飛ばされてしまうのではないかとすら思えてきます。
 適応機制、という心の動きがあるそうです。心にストレスを感じてしまうような状況に追い込まれてしまった時、心がパニックになってしまうと適切な対応や反応が出来なくなってしまいかねない、だから、なんでもないかのように、当たり前に冷静に反応し、喜怒哀楽もひっこんでしまう、心を押し込めてしまう、そんな状態でしょうか。適応機制にはいくつかのパターンがあるそうです。
・苦しく辛い現実から一時的に逃れる(逃避)
・もっともらしい理由をつけて自分を正当化する(合理化)
・他人や物を傷つけたりして欲求不満を解消する(攻撃)
・自分にない名声や権威に自分を近づけ、自分を高める(同一化)
・自分の不得意な面を他の面で補おうとする(補償)
・抑えられた欲求などを学問、スポーツ、芸術などに向ける(昇華)
・欲求や苦痛な体験などを心の中に抑え込んで忘れようとする(抑圧)
・子供のように振る舞って自分を守ろうとする(退行)
 先週も地震があり、水害のニュースも後を絶たちません。被害が大きくないことを願いながらも、あまり多くの詳細な情報を得たいと思えない自分がいることに気づき、ちょっとショックでもあります。
 詩篇は、捕囚に代表される民族的災難を経て、苦難の道を歩んだ民の声を反映した書物です。詩篇は、家族や友人、住まいや仕事を失った人々が、その喪失感の中でおりなし綴ったもの。分裂や侵攻、破壊や捕囚など、さまざまな「もうだめだ」と思えるような危機を経験し、しかもそのたび、滅ぼされる、死んでしまう、終わりになる、根絶やしになる、消えてしまう、を経験していき、そして、なお残されてきた人々の言葉です。
 「長生きはしたくない、親しい人を見送るばっかりになる、取り残されて孤独になる」と言われた高齢の方がおられました。生き残り伝える責任がより強まり、失った悲しみもさることながら、困窮するつらさもさることながら、孤独と不安の長期化が、特に心に重くのしかかっていくのではないかと思います。また、担うものが次第に大きくなり、反比例して担う力が小さくなり、さらにそれを引き継ぐ適当な相手が見つからない、見当たらない、そんなことも不安をさらに増大させることなのかもしれません。
 私たちの周りには、個人としての悩み、職場でのストレス、地域の抱える課題、教会の背負う苦難があります。多くの乗り越えられないくらいの困難を繰り返し、それでもなお詩篇は語り継がれ、読まれ続けてきました。なぜなら詩篇は、苦難の道を歩む中で、ただ苦難を表現するためだけのものではなく、その苦難の中にあってなお語り伝えられた希望の書物であるからです。なぜかといえば、「あなたはわたしの神である」と苦難困難絶望の中にあって、告白し続けることが示されているからです。
 困難さにただ負けるのではなく、人間を超える神の世界に身をゆだねるための、人間の出来うる信仰の適応機制、それが詩篇であり、その神の告白によって、私たちは言葉を発することが可能となり、それを受け取って下さる神の恵みによって、再び生かされることが出来るようになります。
 苦難、困難、まさに受難の日々を宮田教会は過ごしています。その道程にこそ神が伴って下さり、励ましと慰めを豊かに備えて下さいます。苦難にこそ感謝を持って向かい、艱難こそ喜びを持って迎えていく、そのような信仰を育てていくことを願います。 

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