2016年10月16日 聖書:エゼキエル書34章1~6節 「大切なものは何ですか」 鈴木重宣牧師

○熊本の支援の今
 熊本県内各地の避難所が閉鎖され始めている。訪ねている御船の避難所でも今月末を目途に閉鎖と発表され、行き先が決まっていない20名ほどが不安に揺さぶられ、決断を迫られている。「一部損壊家屋へ戻る」「県外への転居」「緊急一時利用として隣のカルチャーセンターに再度移り時間を稼ぐ」のいづれかの選択の時が近づいている。お上の決定で民衆は常に右往左往し、時に、自分のこだわりや願いを放棄しなくてはならなくなる。沖縄米軍基地やらダム建設、道路工事など。自分自身や地元が望んで、ということではなく、「公共の福祉」などというようなよくわからないもののために、個人が振り回される。筑豊の炭鉱が閉山していくさまともしかしたらどこか似ているのかもしれない。国のエネルギー政策の転換によって多数の失業者が生み出され放置される。災害対策の方針決定により、居場所を失った民が行き場に惑う。熊本の今後50年は苦難と苦渋の歴史となるやもしれない。
 遠藤周作の「沈黙」の時代背景には、豊臣秀吉の行った政策転換による宣教師と切支丹迫害、禁教による日本のキリスト教徒の受難がある。さまざまな拷問、甘言、脅迫により「転ぶ」切支丹たち。住む場所や仕事、生活の細部に至るまで権力者に支配され、ついにはこころのうちの信仰心までも奪われていく切支丹たちの目には、地上の権力者はどのように映っていたのだろうか。
 政治を司る者の思惑により、政策が実施される。国が国に対して剣を向ける「戦争」もその一つ。出会わない誰かの尊厳が傷つけられ、平安がうち砕かれ、命が奪われる。いのちを守らんとして、さらに数え切れない命が失われていく。そして「人を愛せよ」「殺すなかれ」「汝の敵を愛せ」というイエスの命令と対峙することになる。切支丹迫害の猛威の中自ら日本に残り、信徒を励ますために信仰に生き死をも恐れなかったポルトガルのイエズス会司祭フェレイラは
 「おまえが転ばぬ限り、あの者達は助からない」
 「お前自身の信仰を守るために、殺されるものがいる」
という言葉に惑わされ「転んで」いく。
 大切なのは自分自身の命なのか、他者の命なのか、信仰なのか、愛なのか。何を優先し何を守り何を捨てなければならないのか。現代においてもおそらく、わたしたちにもフェレイラ同様の決断が迫られ、無自覚のまま無意識のうちに、さまざまな選択を繰り返している。
 土地にこだわり、他者の生活を奪い、信仰を命を奪ったものがいた。信仰の土地奪回を第一にし、すべてを奪うことになっても止められない者たちがいた。強大な国の力と金と権力を用い、念願の聖地奪回を果たし建国された現代のイスラエル。そのありさまをご覧になり、主が果たして喜ばれるのだろうか。
信仰にこだわり、権力に抗い、命を落としたものがいた。そして、その命が奪われることを避けるため、信仰を奪われた者もいた。果たしてなにが大事で正しく、神の目によしとされることなのだろうか。答えなどない、正しいことなどない、のかもしれない。けれども、その路、神の示される路を捜し求めつつ、私たちは歩み続けなければならない。よき羊飼いが、迷い出でた一匹の羊を見出すまで探し続けたように、いつかかならずすべてを一つとされる神の愛を信じつつ、答えを羊飼いを羊を捜し続けるよう、信仰者としての路を共に歩んでいきたい。

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