2016年10月30日 聖書:創世記1章1節~5節     「あきらめてはならない」 美濃部信牧師

私たちは、運や偶然という言葉を日常会話でよく使います。それは日常のことで、楽しく会話をするための良いツールでしょう。しかし、もし運や偶然について聖書的に正面から考えるなら、果たして聖書は何と言うでしょうか。今日はそういう視点で創世記を読見ます。
「初めに、神は天地を創造された。」これは、聖書の冒頭部分。私たちの世界はどのようにしてできたかがこの一言で語られています。この世界は、神の決意と意志によって造られたのだ。何か意図なくできたのではなく、神がこの世界を造ろうと決意されて初めてできたのだと証します。
聖書は引き続き、二日目には大空と水を分け、三日目には陸地を造られました。そして草木を芽生えさせ、実のつく果樹を生えさせられました。昼と夜を造り、そこにようやく生き物を造られます。そして最後に人間を造りました。
ひとつひとつに順序と秩序があることがわかります。これはたまたまここにあったというのではありません。この世界は、神の決意と意志によって造られていて、ひとつひとつに順序と秩序があって造られているのです。
ですから人間もたまたま生まれたのではありません。現象だけを見るとたまたまに見えるでしょう。しかし聖書はそうはいいません。神の決意とご計画の中でひとつひとつが配置されており、たまたまここにあるものなど無いといいます。
運や偶然があるのでしょうか。真正面から聖書的に見るならば、そういうものはありません。たまたまということは無いのです。それが、聖書の語るところでしょう。
マタイ10:29では、人間がたやすく取引している安価な雀さえも、地に落ちるときに人間が勝手にコントロールできないことを伝えています。父なる神のお許しがあって、はじめて地に落ちている。雀のいのちさえ、神のみ心によりあるのです。
 もしこの世に神の意志が貫かれているなら、私たちはあきらめてはいけません。もしこの世界が偶然からなる産物だったら、私たちは身の回りで起こることに対してあきらめなければならない。何か不幸なことが起こっても、それはたまたま巡り合わせで起こっているだけで、それこそ運が悪かったのです。そういう世界では希望を持てません。
しかしこの世はそうではないと聖書は語ります。この世は神の決意と意志によって造られ、神の深い思いが貫かれています。そうならば私たちはあきらめてはならないのです。まだここから希望がある。深い淵にいても、そこから引き上げられる。その背後には、私たちを生かそうとする神の深い思いがあるからです。
 私たちを生かそうとする神の深い思いとは何か。マタイ7章には神と人間との関係を親と子どもの関係に置きかえて例えながらそれを話しています。自分の子どもがパンを欲しかがっているのに、その子どもに石を与える親がいるだろうか。(いや、そんな親はいないと言っています。)その親のように、神も人間に良いものを下さるといいます。良いものとは、私たちが望むものではないかもしれませんが、神のみ心からすると良いものなのです。そのような思いをもって神はこの世を動かしておられる。だから私たちはあきらめてはいけないのです。偶然の世界の中には希望はありません。しかし神の世界には希望があるのです。私たちを生かそうとする神の思いが貫かれているこの世界。その中を私たちは生きていることを信じ、希望をもって、あきらめずに生きていきたいと思います。

聖書のお話