2016年11月13日 聖書:申命記6章4節~9節      「愛さなければならない」 鈴木重宣牧師

 もしも後わずかしか生きられないということがわかったら、家族にどんなことを伝えたいと思うでしょうか。一緒にいられる時間が短いとわかったら?残される家族や友人に何か思い起こして欲しい事があるでしょうか。以上のようなことを申命記を読む前に考えてみて下さい。この書を記した時のモーセの立場がこのような状況でした。モーセは別れにあたり民にどんなことを残すのでしょうか。この民はモーセが心から愛し、40年間も導いてきた家族であり友でもあります。民の指導者モーセは悩みつつ申命記を記します。

 4節の「聞く」という言葉には「聞いて従う」という意味が含まれています。つまり私達が聖書の考えに基づいて行動し、その指示すべてに従うものでなければ、「実際には聞いていない」ということになってしまいます。私達は必ず心からそして、親しい理解と神との交わりを伴って聖書に従って行動しなければいけない。(6:2a~3b、4)そうでないなら、私達は結局は聞いていないと同じになります。この個所の重要さは、新約聖書において「一番大切な戒めは?」という律法学者の問いに対し、イエスさまがこの言葉を引用されたという事実からも明らかです。感慨深いものです。イエさまが読まれ親しまれた個所を、今私たちも読んでいるのです。私達は全てをもって主を愛さなければいけません。「心を尽くし」これはかなり大変な事であり、一筋縄ではいかないことです。しかし忘れてならないのは、主が愛し難いお方なのではなく、私達の側が非常に自己中心的で自分勝手な存在だからです。
 ユダヤ人は〃心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。〃という「シェマー」を日に2度唱えさらに「シェマー」を書いた札を腕や額に巻き付け、家に打ち付けたりしているそうです。先日ある友人が、新婚旅行で中東に言った時のおみやげとして、シェマーを書いた札が入っている壁飾りを買ってきてくれました。聖書に書かれている通りに実践している姿には敬服します。さらに7節には、「家に座っているときも道を歩くときも・・・」と続きます。いつもどこでも、ということなのかもしれません。現代に置き換えるとすると、「車を発進させるときも、トイレでをヴォシュレットを使うときも、地デジ放送を見るときも、これについて語らなければならない」ということになるのでしょうか。時代が変わってツールも変わって状況が変わったとしても、私たちは常に全身全霊を持って主を賛美しなければならないことになります。イオングループの店ではwaonという電子マネーシステムがある。使うと「ワォン」と音がする。以前は随分気になっていましたが、最近は聞き流すようになりました。セブンイレブンにはナナコという電子マネーがあります。キャラクターはキリン。どんな声で鳴くのかと思ったら「シャリーン」だった。おつりも受け取らなくていいし、何より現金を出し入れしなくていいから至極便利、と思っていたら外国人派遣労働者の学習会でみたビデオの中で、「セブンイレブンの弁当はわれわれラテンが作ってる正規の給料払ったら、たちまちセブンは大赤字」という歌を聴いてしまった。
 うかつに食事をし、知らずにものを買う時、まったく繋がりを見つけがたい状況においてすら、誰か他人を踏みつけている状況がある。安い製品や簡単に手に入る物には、きっと誰かが損させられている、或いは誰かが不当に得している、そんな状況があるに違いない。本当に誠実に生きるのは難しい。誰にも迷惑をかけないで誰もが行う作業。誰をも搾取せず差別せず踏み付けず押しのけない時。ひょっとするとそれが、家で座っているときと道を歩くとき、寝るときと起きるとき、なのかもしれない。少なくともこれらの時は、瞬間的には誰かを傷つけ踏みつけてはいないようにも思える。
 そしてこの個所は、迫害にあい、自由を奪われ、公に主を賛美し信仰を告白出来ない状況に在るときであっても、主を愛し告白することが出来るように、配慮されているようにも読める。坐り歩き寝て起きる。これらは仮に投獄されたとしても最低限許されうる行動であり、棄教を迫られたとしても、無言の内に主を賛美可能性を示唆しているようにも感じられる。
 主を愛す。とは、主が愛されるすべてをも愛すということ。主を愛す、と口にしながら、他の誰かを憎むことはできません。しかし実際には、主を愛すると礼拝では言いつつも、意識的無意識的に他の誰かを利用し踏みつけてしまっています。私たちは充分注意しつつ、主を愛す者として歩みたい。モーセのように残された時間の多寡はわからない私たちにとって、常に心を主に向けその主の向かわれた先を求めることは難しいことです。だからこそ共に集い、すべてを支配し見守られている方を前にして、自分自身のすべてに注意し、互いに励まし支え合って懺悔と祈りと感謝の日々を過ごしたいと思います。

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