2017年1月1日 直方宮田合同礼拝 於:直方教会     マタイ2章1節-12節「最も小さいもの」 鈴木重宜牧師

おはようございます。新年あけましておめでとうございます。
 2017年最初の日曜日をこうして共に礼拝を持つことが出来ますことを、本当に嬉しく思います。直方に来て、18回目の年末年始、しかも今年は元旦が日曜日です。
 直方に来て最初の年は、年越し後数時間後には出産のため本多香織さんが入院。2年目には、肺炎で風歌が年末より二週間の入院。3年目には、NPOの越冬炊き出し日程が重なり休暇の予定が立たず、帰省できず独りで年越し、4年目は年末年始に家族全員でインフルエンザに罹り高熱を出し、部屋でうなされて過ごしました。当時も今も、寝込むと特に大変なのが、食事です。当時の飯塚教会の正井洋子先生が土鍋シチューを、田川教会の日下部遣志先生が鍋一杯分の豚汁を届けてくださり、大変助かったことを覚えています。また、若松浜ノ町教会の田中知先生は、韓国料理の鶏スープサンゲタンと筑前煮を届けてくれました。今年は正月らしさがないな、と思いかけていた時には、教会員の香田真澄さんがつきたてのおもちを届けてくださいました。
 少々オーバーに言いますが、これはクリスマスに匹敵する、すごい経験をすることができたのかもしれない。ちらかる部屋、立つ者のない台所、空っぽの冷蔵庫、この上なく厳しい状況下で、東から南から北から、博士ならぬ料理人達が、没薬、乳香、黄金ならぬ、シチュー、豚汁、スープ、そしてもちを携えて、来て下さった。傲慢で自分勝手な状況理解・聖書記事のこじつけですが、単純に、本当に助かった。ありがたかった、嬉しかった。困ったことになり、そして誰かに助けられたことが、なぜだか本当に嬉しかった。変な話ですが、頼ることが出来るだけの関係ができていたことがわかって、嬉しかった。あれから10年以上経ち、いつからか毎年年越しは若松浜ノ町教会の田中知先生とすき焼きをする、ということが恒例行事となっています。あのインフルエンザ年越しの出来事が、田中さんとの不思議な縁の始まりだったのかもしれません。

 先週、クリスマスは12月25日だけれども、これはイエスの誕生日ではなくイエスキリストの誕生を祝う日。イエスキリストの本当の生まれた日はこの日!とは言えないかも知れないが、逆に言えば、今日Ⅰ月8日!といえなくもない。ある意味で毎日がクリスマス、毎週毎日が、イエスの誕生を祝い感謝し行動する日、と言えます。これはクリスマスに限らず、聖書によって伝えられるすべての記念すべき事柄についても同様です。2000年も前の過去の事として、歴史を見るように読み重ねるだけではなく、まさに今ここに現実、或いはこれから起こりうることとして、聖書の物語を読んでいく心構えが必要です。その信仰の姿勢が私たちを新たな出会いへと導き、イエスのおられる場所へと続く道を指し示す星明かりに気づかせてくれます。
 いくら人口調査だ、出産間近だといっても、客間には二人が入りこむ程度の余地の一つもあったでしょう、きっとお金さえ積めば。若い二人の長旅においては、ほとんど無かったんでしょう、場所や人情よりもむしろお金が。すなわち単純に、行政・制度のために生活に困っていた、そして人生・命・出産によってさらに困る。そういう状況にあったヨセフとマリヤとイエスにとって、この博士達の贈り物はこの上なく、助かる、具体的にありがたいものでした。

 博士たち、すなわち、世を救う偉大な方がパレスチナに生まれる、そう占った占星術者達。星に導かれて、西にたどり着くと、経済と政治によって困窮している若い家族が馬屋(おそらく岩の横穴)にいた。いかにも貧しい家族、さらには幼子の泣き声。心ある人で在れば、思わず助けを考えずには居られない状況ではないでしょうか。しかも、イエスの誕生、それにまつわる数々の物語は、いわゆる奇蹟物語にはなっていません。かたや、バプテスマのヨハネは、父親であるザカリヤの口がきけなくなり、後に話せるようになるなどの、不思議な奇蹟物語が添えられていますが、イエスにはまるでありません。なさそうでありそうな、ちょっとリアルな贈り物物語、訪問客物語、夢に御使いがあらわれたりするだけです。
 イエスは特別すごい生い立ちを持っているわけではなく、かといって持っていないわけではなかった。マタイ福音書の著者も、その生まれに重きを置きたかったのではなく、イエスの生き方そのものにすごさ、偉大さがある、ということを強調したかったのではないでしょうか。その点、マルコによる福音書には一切の誕生物語が記されてないのですから、より厳密にイエスの生き方にスポットを当てていたといえるわけですが。

 イエスを中心にしきっかけにし、様々な人が出会い、つながり、次第にその輪は世界に広がっていきました。未だに私達の周りには、それとは気づかず、いろいろな出会いが続いています。イエスキリストを探す信仰の旅、人生の道程はなお長く続きます。西方を目指し旅した博士たち同様に。そして、その旅の果て、出会うべくして出会うのは、困難さの中に、貧しさの中に、暗さの中に、ひときわ輝く御子イエスの存在であり、通り過ぎずに向かい合い、自ら果たしうる業としての贈り物を捧げることができるとき、私たちは神の子としての使命を全うすることができます。その旅はまだまだ終わりが見えません。これからも続くイエスに従う道すがら、一つひとつの出会いに神さまの御心があり、それらを通して語られる様々な神からのメッセージを、信仰のこころで受け止め、感謝を持って歩んでいく年としたいものです。
 

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