2017年1月15日 聖書:ペトロの手紙Ⅱ 3章8~14節   イザヤ書 40章1~11節「耳をすまして」 世良田静江牧師

本日の箇所はペトロを特に悩ましている異端の特徴は、イエスの再臨を否定されることであった。文字通り異端者たちの再臨はどうなのだ、という事でありました。
 主が復活し、昇天されてまだ近い年代であったにもかかわらず、私たちは歴史の歩みをすぐに忘れてしまうというところに人間は存在するのだと思います。
 紀元前540年頃バビロン捕囚のただ中にあったイスラエルの民に対して、神が預言者を通して語られた言葉は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と語りかけられた神のことばが記されています。このバビロン捕囚という出来事はあまりにも理解に苦しむ出来事でした。廃墟となったエルサレムのように、彼らの心はすさみ、傷つき、信仰も荒れ果てていたのです。その様な時に「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言われても、信仰を深く傷つけられている民がどれだけ心を開けたのか否かです。
 彼らは神の言葉を聞くことが出来なかった。いくら神が「慰めよ」と語りかけてもその言葉に耳を傾けることが出来なかった。
 昨年12月25日小郡教会で私の知人が洗礼を受けました。30年間、私は時々、御言を記し、手紙を書き、時には激しく信仰問答をし、結局、洗礼にまでは至ることもなかった。「世良田さんは幸せだから」というのが彼女の最後の言葉となる。苦しい事がある限り、神など簡単に受け入れられないというところでしょうか。洗礼後、「あるがままに生きていこう」という彼女の言葉に慰められ安堵しました。
 預言者ですら何を民に呼びかけて良いのか分からない。自分たちの苦難の現実は主の風が吹きつけた結果だと。その吹きすさんだ風によって二度と立ち直れない、枯れ果ててしまった草にすぎない。何とネガティブな言葉でしょう。私たちも強い風に吹きつけられ倒れそうになる時、どんな慰めの言葉も入ってこない。でも耳をすますと私たちには語りかけてくださる神がおられるのです。
 私たちはみ言葉が語られるこの礼拝にどれ程の思いで出席しているでしょうか。世の忙しさと雑踏の中で共に歩んでくださり、その傍らで慰めるために語りかけてくださっているのでしょうか。自らが思いを空っぽにして神の語りかけを聞きつつ、一週間の旅路を安らかに歩みましょう。

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