2018年7月15日 聖書:マルコによる福音書10章46~52節 「目をいやされた盲人」川本良明牧師

 エリコは約25㌔離れたエルサレムに行く道筋で、過越の祭りのために大勢の人が沿道を埋めていました。その中にイエスの一行もいたのですが、彼らは特別な雰囲気に包まれていました。それはエルサレムにはイエスの命を虎視眈々と狙う者たちが待っていると知っていたからです。イエス自身も、<人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されて死刑を宣告され、異邦人の手で殺される。そして三日の後に復活する>と繰り返していました。しかも一行は驚きました。イエスが彼らの先頭に立って行くからです。しかし彼には明確な意志と決意がありました。ご自分の死が、私たちの救いのためであり、それが父なる神の愛の意志であることを、自分を復活させることで示されることを知っていたからです。

 一行がエリコの町に入り、そこで何をしたのかは書いてませんが、やがて町を出て行こうとした時、鋭い叫び声が聞こえてきました。道端で物乞いをしていた1人の盲人が、大声で、<ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください>と叫び始めたのです。人々は彼を叱りつけ、黙らせようとしましたが、彼はますます、<ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください>叫び続けました。ところがイエスは立ち止まって彼を呼ぶように言われました。それを人々から聞いた盲人の物乞いは、<上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。>そしてイエスから、<何をしてほしいのか。>と聞かれると、<先生、目が見えるようになりたいのです>と言いました。そこでイエスが、<行きなさい。あなたの信仰があなたを救った>と言われると、彼はすぐに見えるようになって、イエスに従っていったというのがエリコの町で起こったことの顛末です。

 聖書は、この盲人が、<ティマイの子、バルティマイである>と記しています。なぜこのように記しているのだろうかと思います。いろんなことが考えられます。1つは、後に教会が起こったとき、教会の一員となったからではないかという推測です。しかし大声で叫ぶ彼を、物乞いのくせに出過ぎたことをするなといって、邪魔者扱いされているのを見ると、彼が町の中ではよく知られていた人である、それも虫けら同然として見られていたことが分かります。その彼がイエスの足を止めさせたのは、彼の言葉でありました。バルティマイは「主よ」と言っていない、<ダビデの子よ>と言ってます。この言葉がイエスの足を止めさせたのです。

 ダビデとは、イスラエル民族の歴史に現われた名君と言われている人物です。人々は、ダビデのような理想的な王が彼の子孫から現われて、神の国を実現するのだと信じていました。その理想的な王がキリスト、ヘブライ語ではメシアです。ですからユダヤ人にとってキリストは、きわめて政治的な、軍事的な、経済的な、文化的な側面を持った救い主でした。単に罪の贖い主の面だけではないということです。聖書はキリストを真の祭司、真の王、真の預言者として描いています。私たちはどちらかというと、罪の贖い主のキリスト、つまり神の犠牲の小羊として、大祭司として、私たちの罪の贖いとして来られたという面を強調しています。しかしキリストは、王の中の王、きわめて自由で、政治的、軍事的、経済的で様々な面で考えねばならない救い主であることを見落としてはならないのです。

 バルティマイもキリストが来るのを待っていました。この点で彼もユダヤ人の一人でしたが、人々はイエスを見たとき、彼こそキリストであると信じました。たとえば男だけで5千人にパンと魚を与えた奇跡を行なっています。ですから人々は、この人こそ社会の改革やローマからの独立や様々な悪を滅ぼす救い主だと期待していました。ところがイエスには全くそんな気配がありません。人々の間に失望感が漂ってきました。洗礼者ヨハネも牢獄の中から2人の弟子を遣わして、イエスに「来たるべきお方はあなたですか。」と尋ねています。するとイエスは、「盲人の目は開き、病人はいやされている。この事実を伝えなさい」と言っています。しかしバルティマイは、目が見えないためにかえって惑わされないで本当のことが見えていました。彼の耳に入ってくるのは、盲人の目を開け、病人を治し、悪霊を追い出し、さらに死人を生き返らせるなど、多くの奇跡や不思議なわざでした。だから彼は、本当にこの方こそダビデの子孫だと思ったのでした。

 そして彼を決定的に確信させたのは、<貧しい人々は幸いである。憐れみ深い人々は幸いである。義のために苦しむ人々は幸いである。…>という山上の説教だったのではないかと思います。これを人づてに聞いたとき、彼は、キリストが来られたときには、「あなたがたは幸いだ」と言われた人々を真っ先に招いて下さって、イスラエルを根本から新しくしてくださる、そのような望みを抱き、信じて耐えてきた彼は、町に来ているのが<ナザレのイエスだ>と聞いたとき、今がその時だと確信しました。だから<ダビデの子よ、私を憐れんでください!>と叫んだのです。それは、抽象的な主であるとか漠然とした全能の神ではなく、ナザレのイエスとして現われたダビデの子において、イスラエルの神が自分を憐れみ、この悲惨な現実を引き受け、ここから救い出してくださるという彼自身の信仰の告白でした。そこでイエスは彼の目に触れて、「あなたの信仰どおり、その身になるように」と語り、バルティマイは見えるようにされたのでした。

 彼がイエスをどれだけ理解していたか分かりません。はっきりしているのは、「このお方にはそれがおできになる」という信仰です。軽蔑され、のけ者にされていた小さな者を、慈愛に溢れて迎え入れるイエスを知って、<上着を脱ぎ捨て(「古い自分を捨て」ということ!)、躍り上がってイエスのところに>行き、<何をしてほしいのか>と言われたとき、「もしおできになるなら」という条件を付けず、単刀直入に、<見えるようになりたいのです>と願っているその信仰です。

 願いが叶ってイエスに従ったバルティマイは、この後、子ろばに乗ってエルサレムに入城するイエスを見ました。また神殿で鞭を振るうイエスを見、さらに権威ある教えを語るイエス、そしてやがて捕縛されて連行されていくイエスを見ました。大勢の群衆に攻撃され、十字架の死刑の宣告を受けて、ゴルゴタへの道を歩むイエスを見た彼は、十字架において絶叫して息を引き取るイエスを見、そしてさらに甦えって現われたイエスを見ました。ですから彼は、ふり返って見て、自分が目を開かれたのはこのためだったということに気づいたのでした。ただ自分の目が見えるようになったことを喜ぶのではなくて、イエスが自分の目を開けてくださったのは、これをしっかりと見させるためだったのだと知ったのです。つまりバルティマイは、神の御用のために自分にできることは何かを発見したのです。この彼の生き方は、私たちも教えられるのではないかと思います。

 私たちも彼と同じように、古い自分を脱ぎ捨てて何を見なければならないのか、それは神であり人であるイエスです。聖書は、イエスの容貌や声音、背丈、形姿、匂いなど全く書いていません。Ⅰコリント13章4節以下で、パウロが愛の賛歌を語っています。<愛は寛容であり、情け深く、ねたむことをしない。愛は高ぶらず、誇らず、不作法をしない、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真理を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える>。これは愛をイエス・キリストに置き換えて読まなければなりません。これはイエスのことを言っているのです。この愛というお方こそキリストであって、バルティマイが見たのは、このイエスであり、真の人間でした。

 私たちは一人ひとり復活の信仰を与えられているのですが、イエスが復活したのは真の人間として復活したのです。彼が神として復活するのは当たり前のことです。けれどもなぜわざわざご自分が復活したことを示されたのか。それは真の人間として復活したということを告げるためです。しかも十字架の死を通して、すべてに勝利した人間、完全な人間、これが王なるイエス・キリストなのです。
 このように信じるならば、復活した真の人間イエスは、戦国時代でも江戸時代でも現代でもどの時代においてもその時代の人間にも成れるお方であると信じることができます。つまりキリスト・イエスは、その時代の教師と成ったり、預言者と成ったり、漁師あるいは羊飼い、罪人の仲間に成って、その友、兄弟姉妹と成ってくださって、慰め、生きる希望を与えてくださったし、くださっているし、これからもくださるであろう、それが復活したイエスを信じるということです。ですから彼は、どんな人間に出会っても、あるいは悪霊に憑かれた人間に出会っても、全く動じることがないお方であります。

 これは歴史を見るときの試金石でもあります。十字架においてすべてに勝利されて復活したイエス、聖書が証言している「かつていまし、今いまし、やがて来られる」お方となられたイエス・キリストを信じる私たちは、歴史を見るときには、神に連れ立っていただきながら過去にもどらなければなりません。もしもそうでないならば、そこは、十字架の陰で覆われた、呪われた、救いようのない荒れ野が茫漠と拡がっていることになります。けれども、イエス・キリストとともに過去にもどるならば、その過去は、裁きと赦しと慰めに満ち、意味深い足跡であったことが示されます。この世の歴史も教会の歴史も自分の歴史も、イエス・キリストと共にふり返るならば、そのように示されます。それが私たちが歴史を見る場合の特別な賜物ではないかと思います。歴史認識という大きな問題がありますが、この復活の信仰に立って私たちは深めていきたいと思います。

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