2018年8月26日 聖書:マルコによる福音書 2章1~12節 「失われた交わりの回復」岡田博文兄

 ガリラヤ地方で教えを宣べ伝え始められた主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い
出されたという噂が広まったので、多くの人々が彼のもとに集まって来ました。主イエスはいろいろな願いを持って集まってきた人々を、決してお見捨てになりませんでした。第一は、主イエスは「私たちの願い、祈りを聞かれる」と言うことです。
奇跡を信じるということは、どんな絶望的な状況の中に置かれても、屋根に穴を開けてまでも主イエスのそばに病人を運んだ人々のように、最後まであきらめないで、人間の知識や常識を越えた可能性を信じて、ぶつかっていくことです。
主イエスは、中風の者の病気を癒す前に、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と、罪の赦しを宣言されました。第二は、「罪の赦し」です。罪とは犯罪や不道徳のことではなく、神と人間との正しい関係が失われ、歪められていることです。
神に造られた人間にとって、神との交わりが断たれるということは、生きている土台が失われることであり、錨(いかり)が切れて荒海に漂う小舟のように、不安で恐ろしいことです。主イエスは私たちの罪を赦し、神と人間との失われた関係を、もう一度取り戻すために、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださったのです。
病気を癒すことは、医学の進歩によって可能になりました。しかし罪を赦す権威は、十字架に私たちの罪を負って死なれた主イエスだけが持っておられるのです。
主イエスは、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)と言われました。
奇跡を信じるということは、自分勝手な願望がかなえられるために、神の力を利用することではありません。主イエスだけが、私たちになされた本当の奇跡は、十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちに永遠の生命をお与えくださったことです。第三は、「新たな生命、新しい人生が始まる」ということです。私たちにとって大切なことは、病気が癒されたり、豊かで幸せな生活を手に入れることではありません。それらは確かに大切なものに違いありません。しかし、一番大切なものではありません。私たちにとって一番大切なことは、神との失われた交わりが回復され、神を礼拝し、神と共に生きる新しい人生が始まるということです。
「伝道はむずかしい」。しかし、「あなたがたの罪は赦されている」、このみ言葉が聞けるのだから、一緒に教会に行きましょうと招くのです。私たちは、この言葉を、自分の愛する者に、家族に、友人や知人に、語ることをしないで、どうして、自分だけが平穏に生きることが出来でしょうか。「教会の祈り」がここに生まれる。

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