2019年12月24日 聖書:フィリピ 3:20~21 「私たちの本国は天にある」川本良明牧師

 クリスマスが12月25日であるとされていますが、聖書は書いていません。冬至という説があります。ローマ帝国でも太陽神が冬至に死んで3日後の25日に復活するという盛大な祭があり、キリスト教会は4世紀にその日をクリスマスと決定しています。しかしこれは、冬至に関わる自然宗教を背景にしているのであって、歴史的な事柄ではありません。自然の動きから生活に役立てるために、人類の知恵が生み出した祭りであって、世界中に見られるものです。
 しかし旧約聖書のダニエル書やユダヤ教の立場から見ると、12月25日は歴史的に特別な日であります。前4世紀にアレクサンドロス大王がユダヤ地方を支配して以来、ギリシア宗教が持ち込まれ、前2世紀にはエルサレム神殿にゼウス神が祀られました。ダニエル書はこれを背景にして書かれています。これに対してユダヤ人指導者であったマカベヤが叛乱を起こして勝利して、神殿を奪還したのが前165年12月25日でした。神殿の奥に入ると、ランプが1個、埃をかぶって転がっていて、1日分の油が入っていました。それを灯して神殿を神に奉献しますと不思議にもランプは8日間も燃え続けました。
 この出来事を記念して祝うのがハヌカの祭です。ハヌカとは「献堂」という意味です。今でもユダヤ人は祝っていますが、燭台に8つのランプがあり、毎日1個ずつ明かりを増やし、8日目には全部燃やします。これは教会がアドベントに1本ずつローソクを灯したり燭火礼拝を行うのとたいへん似ています。初代教会はユダヤ教から賛美歌や祈りやイベントなどを取り入れました。もちろん聖書はキリストをめざして書かれた神の言葉として引き継がれました。ですからクリスマスが12月25日であるのは、ハヌカの祭りに由来していると思います。
 しかしヨーロッパの教会は、ユダヤ人を「キリストを殺した民族」として迫害しました。そして教会からユダヤ的なものを排除するようになり、ハヌカのことも消えていき、聖書も旧約聖書と新約聖書を切り離して読むようになりました。ユダヤ的なものを排除していくにつれてキリスト教自身も歪んでいき、イエス・キリストの誕生も例外ではありません。先ほどイザヤ書を読みましたが、もともとキリストの誕生は、旧約聖書が語っているイスラエルの歴史と切り離すことはできないのです。それを切り離してしまったためにキリストの誕生は、神話だとか心理的解釈や実存的解釈で読まれるようになりました。
 クリスマスは、キリスト・マスつまりイエス・キリストの誕生を祝う祭です。イエスとは、ヘブライ語ではヨシュアと言って、ユダヤ人のありふれた名前です。またキリストとは、ヘブライ語ではメシアと言って、名前ではなく「救い主」という職名です。だからヘブライ語のヨシュア・メシアをギリシア語になおすと、イエス・キリストという読み方になります。その誕生を語っているのが、マタイ福音書とルカ福音書とヨハネ福音書です。語り方はちがいますが、共通しているのは、人間の媒介なしに生まれたということです。マタイとルカは明確に「聖霊によってマリアから生まれた」と語っています。マリアは男性を介することなく、つまりおとめでありながら子どもを産んだのですから、これは大変な出来事です。
 聖書には、2匹の魚と5つのパンで男だけで5千人を養ったとか盲人の目を開けたとか、奇跡物語が沢山あります。あるとき中学の女の子が私に聞きました。「先生はこれを信じているのですか」「もちろん信じているよ」牧師ですからね。「どうして信じることが出来るんですか」「そりゃ、信じなければ分からんよ」どうして信じることができるのかと訊いてるのに信じなきゃ分からんというのは問答にもなりません。しかしこうしか答えようがないのです。
 考えてみると、宇宙のことや自然界のことや私たちの体のことなどが本当に詳しく解明されてきています。マクロの世界もミクロの世界も解明されればされるほどおどろくばかりです。昼間に雲と丸い月がどちらも白く見えると、丸い月は造られたものとしか考えられません。前人未踏の地に腕時計が落ちていれば、それを自然の産物と決して思わないのと同じです。なぜポンプもないのに高い木のてっぺんまで水が行くのでしょうか。宇宙の果てはどうなっているのでしょうか。この小さな人間の頭で神が造ったことをああじゃこうじゃと考えようとすることなど無理ではないか。信じる以外にないと思います。それでは迷信と同じではないかと言われそうですが、そこに理性や科学という神から与えられた重要な能力があると私は思います。それはともかく、もしも信じるならば、じつに豊かでおどろくような世界が広がってくることはまちがいありません。キリストを裏切ったことは何度もありますが、キリストが裏切ったことは一度もないからです。ですから信じるということは、迷信ではなく、イエス・キリストを信じるということです。
 おとめマリアからイエス・キリストが誕生したことは、神が天地を創造したことやイエス・キリストが十字架に死んで3日後に復活したことと同じように、信仰が求められる出来事であります。聖書は、クリスマスは聖霊によって起こったと堂々と伝えています。なぜそのように語ることができているのでしょうか。その根拠は、死者の中から復活したイエス・キリストにあります。もしイエスが復活していないとすれば、クリスマスは二千年前に短い生涯を終えたある特別な人の誕生を記念する祭りとなってしまいます。しかしイエスは復活されました。
 イエスは、二千年前の神話物語の人間ではなく、過去・現在・未来のすべての時間を超えた永遠に生きるお方として、いつの時代にも生きておられるお方です。江戸時代にも縄文時代にも生きていました。そういうイエスが、過去の人もこれから生まれてくる未来の人も、すべての人を、罪と悪にまみれた暗い世から救い出すために、二千年前に赤ん坊として世に来られ、神様の計画に従ってなすべき事をなし終えた、そのことを繰り返し繰り返し、その都度、いつの時代においても、復活したイエス御自身が、聖霊として親しく新たに語りかけ、伝えてきた命の言葉であります。この聖書の言葉、そしてキリストの誕生を命の物語であると信じるならば、これほどすばらしく喜びに満ちた物語はないだろうと思うのです。しかも旧約聖書が証言しているように、この出来事は、イスラエルの歴史において、アブラハム、モーセ、ダビデ、預言者たちによって、約束されていたことです。つまりイエス・キリストは、マリアから誕生する前、隠された姿において、イスラエル民族の歴史とともに歩まれていたのです。
 そして、いま私たちは、聖霊によって教会に集められ、その約束のもとに生活するように勧められています。先ほどお読みした聖書の言葉がそれです。<しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。>(フィリピ3:20~21)すばらしい言葉が書かれていますが、これはどういうことでしょうか。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られる」この手紙を書いた時は、すでに何十年か前にイエス・キリストがおられていろんなことをなさって、十字架に死んで、復活して、天に昇られて、今や聖霊として来られて教会が起こっている時です。だから、今、「そこから主イエス・キリストが救い主として来られる」と言うのはどういうことでしょうか。それは再びイエス・キリストが来られるということです。今は隠れておられるイエス・キリストは、聖霊として世界で生きて働いておられるのですが、やがてはっきりと姿を現して、もう一度この世界に来られるということです。
 再臨という言葉があります。再び来られるという意味ですが、じつはイエス・キリストは一度来られました。それが復活で、第一の再臨です。そして天に昇られた後、聖霊として来られました。それが第2の再臨です。いま私たちは第2に再臨の時代を生きています。やがてイエス・キリストは終わりの日にはっきりと現われて来るというのです。第1の再臨、第2の再臨を考えますと第3の再臨は、想像を絶することではないかと思います。マリアから生まれたイエスは、父なる神の御意に従順に苦難と死の生涯を送られたのは私たちと全くちがいますが、しかし私たちと全く同じ人間でした。ところが第一の再臨では、「鍵のかかった部屋にスッと入って来たり、エマオに向かう弟子たちや墓地にいたマリヤはイエスと見分けられなかった」とあります。ただしここにいればあそこにはいないという制限をされていましたが、やがて空間と時間に妨げられない聖霊として来られているのが第2に再臨です。このように生前と第1の再臨と第2の再臨とときは、同じお方でありながら以前とはまるで違うお方として現われています。こういうお方が終わりの日に再臨されるのです。どんなお方としてこられるのか想像がつきません。同じあのイエス・キリストであって、じつに理解を超えたすばらしいお方として来られることはたしかです。そしてその時にすべての人と復活するということが約束されています。イエス・キリストの誕生を、神話ではなくて事実として信じるならば、本当におどろくべきことを知ることが許されます。そのようなイエス・キリストが、おとめマリアから生まれて、今、ここで、信じることが出来るように、聖霊によって私たちの目が開かれ、心が開かれていることを心から感謝したいと思います。クリスマスおめでとうございます!

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