2019年12月29日 聖書:ヨハネによる福音書14章6~21節 「変えられることの希望」樋口公子姉

 身体に良質なものを取り入れるならば、身体は健康になります。同じように、受け入れる言葉や、考え方によって自分の心も変わります。マイナスな言葉を浴びるとどんどん輝きを無くすものになっていきます。しかし私たちは常に気にかけてもらっているチャーミングな存在、目も鼻も人が何と言おうと美しいものです。私は、今年、自分もそういう存在であるのに、自分でそれをそうでないもののように扱い、事実、そういうものにしてしまっていたと気づきました。そして自己肯定感の低い自分を変えられたいと思うようになりました。私たちが大好きな存在。私たちはなぜその人が好きなのでしょうか。その人が素直な心で、偽りのない笑顔を見せてくれた時に、その人は大切な存在にならないでしょうか。もしそんな大切な存在が、汚い言葉を吐き、自分に嘘をつき、だますようになったら、私たちの心に大きな悲しみが訪れます。私たちは尊い存在でありちゃんと愛されています。私たちがそのことに気づかないかぎり、愛されないと感じる気持ちはなくなりません。自分が宝物のような大切な存在だと分かる時、それにふさわしく生きる努力を続けるなら、私たちは望むものが与えられ、必要が満たされるのだと思うのです。私たちは自分を価値のないもののように扱ってはいけません。では自分の存在の価値に見合った生き方をするにはどうしたらよいのでしょうか。世の中は勝てばよいのだという風潮があります。悪いことをしても得をすればそれに快感と喜びを感じる人もいます。しかしその行いは必ず自分に帰ってくるのです。悪は悪にしか向かわず心に悪いものを入れ続けるならば気が付かないうちに私たちの罪が慢性化して罪ですら罪と思わなくなります。「罪の支払う報酬は死です。しかし神の賜物はわたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」
もし神様が私たちに深い愛情をもち大切に思っておられるなら、私たちにきれいな心でいてほしいと望んでおられないでしょうか。生き生きと喜んで生きることを誰よりも喜んでくださらないでしょうか。わたしたちにはすでにその心を持っているのです。
動物にはできないけれど、私たちには深い愛情を抱くことができます。そして相手を大切に思うからこそ取れる行動があります。「愛は寛容であり情け深い。」コリント人への手紙13章4節以下はそのきれいな心について語っていると思います。きれいな心で生きることは私たちの使命であり本当に命に至る道ではないでしょうか。だから私たちは神様の方へ立ち返らないといけません。私はそれができる唯一の方法は自分に死ぬということだと思います。一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべしとあります。自分に死ぬということ、それはとても悲しいことかもしれません。難しいことかもしれません。でもそこに本当に幸せな豊かな世界が広がることを信じるならば、人生はどんなにか実りあるものとなり、希望に満ちたものとなるでしょうか。自分に死ぬということ、それはイエス様の十字架の死にあやかるということではないでしょうか。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された身体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。わたしたちはキリストとともに死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」私は自分の中の不幸な思いから逃れたいと思いながらどうしても死ねない課題があります。その時「私が道であり、真理であり、命である」という言葉がありました。この方の命によらなければ自分は生きることはできないと思いました。今の思い、悲しみから逃れたい、変わりたいと思うなら、それは神に立ち返るならば必ずかなえられると信じます。マルコによる福音書10章27節には「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである。」とあり、ヨハネの14章13節にも「わたしの名によって何かを願うならばわたしがかなえてあげよう。」とあります。死ねない自分が立ちはだかっています。自分を見つめ、本心を見つめて、自分の願う方向へ変えられるものでありたいと願っています。

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