先日,教皇が女性を平手打ちした。それも2度もした。後で謝罪した。
サンピエトロ寺院は、ペテロの墓との伝承がある。
教皇はペテロの後継である。ペテロのイメージは教師ではなく信徒である
そう理解すれば女性への一件は理解できる
暮れに問安があった。その中で驚いたことがあった。キャロリングをしたのは
宮田教会だけであった。その他問安に来た三つの教会では、行われていなかった。
それも、しないのが当然のような話しぶりであった。理由は、高齢化もあるが
讃美歌21では、クリスマスの曲が少ないのも関係がある気がする。
3.13日の月曜日、信徒研修会が復興教会であった。協会共同訳の聖書についてのお話で
あった。住谷眞牧師が講師であった。驚いたことは、イナゴがバッタになり、マムシが
毒蛇になったことである。これでは、日本語としておかしい。理由は、どちらも日本の
固有種と説明された。事実ではあるが、ポエジーが無くなる。元のままで良いと思われ
る。
讃美歌も同様であるが、改悪の道を進んでいる。理由は、言葉のセンスである。
樋口一葉がそうであるように、センスは教育や学歴のレベルを超えている。キリストや
ペテロやフランチェスカは、書斎に居た人ではない。聖書そのものも伝承されてきたも
のである。
学問で大事なことは、成り立ちである。地理学は土地の記述であり、植物学は植物の記
述である。文字以前の学問である。記録は図で示した。文字の何百倍も古い。宗教も同
様に文字以前である。これは伝承それも歌で伝えて来たと思われる。
日本人は訳読が、学問だと勘違いしてる。真理は書物ではなく巷にある。キリストや
ペテロやパウロやフランチェスカはそれを知っていた。以前、哲学の先生に文献で論文が
書けるかと問うたことがある。彼は新しい発見はないが、解釈があると言った。
解釈の論文は非常に弱弱しい気がする。
最後に聖書には、司祭という言葉は無い。あるのは、キリストと信徒だけである。
信徒が中心になって初めて教会が立ち上がる。ペテロは信徒の頭である。
字の読めない羊飼いたちは讃美をしながら帰っていったが、現代の教会は、それすらで
きなくなっている。聖書にある様に、文字は人を殺している。