2020年1月19日 聖書:マタイによる福音書16章15~20節 「信徒の頭」 豊田滋兄

先日,教皇が女性を平手打ちした。それも2度もした。後で謝罪した。
 サンピエトロ寺院は、ペテロの墓との伝承がある。
 教皇はペテロの後継である。ペテロのイメージは教師ではなく信徒である
 そう理解すれば女性への一件は理解できる

暮れに問安があった。その中で驚いたことがあった。キャロリングをしたのは
 宮田教会だけであった。その他問安に来た三つの教会では、行われていなかった。
 それも、しないのが当然のような話しぶりであった。理由は、高齢化もあるが
 讃美歌21では、クリスマスの曲が少ないのも関係がある気がする。

3.13日の月曜日、信徒研修会が復興教会であった。協会共同訳の聖書についてのお話で
 あった。住谷眞牧師が講師であった。驚いたことは、イナゴがバッタになり、マムシが   
 毒蛇になったことである。これでは、日本語としておかしい。理由は、どちらも日本の 
 固有種と説明された。事実ではあるが、ポエジーが無くなる。元のままで良いと思われ 
 る。

讃美歌も同様であるが、改悪の道を進んでいる。理由は、言葉のセンスである。
 樋口一葉がそうであるように、センスは教育や学歴のレベルを超えている。キリストや
 ペテロやフランチェスカは、書斎に居た人ではない。聖書そのものも伝承されてきたも 
 のである。

学問で大事なことは、成り立ちである。地理学は土地の記述であり、植物学は植物の記
 述である。文字以前の学問である。記録は図で示した。文字の何百倍も古い。宗教も同 
 様に文字以前である。これは伝承それも歌で伝えて来たと思われる。

日本人は訳読が、学問だと勘違いしてる。真理は書物ではなく巷にある。キリストや
 ペテロやパウロやフランチェスカはそれを知っていた。以前、哲学の先生に文献で論文が  
 書けるかと問うたことがある。彼は新しい発見はないが、解釈があると言った。
 解釈の論文は非常に弱弱しい気がする。

最後に聖書には、司祭という言葉は無い。あるのは、キリストと信徒だけである。
 信徒が中心になって初めて教会が立ち上がる。ペテロは信徒の頭である。
 字の読めない羊飼いたちは讃美をしながら帰っていったが、現代の教会は、それすらで 
 きなくなっている。聖書にある様に、文字は人を殺している。

聖書のお話