2020年9月6日 聖書:エフェソの信徒への手紙4章6~20節「光に生きる」豊田護兄

 昔娘が小さいときに、「光の子らしく生きなさい」とよく口にしていました。光に生きるとはどんなことでしょうか。
 人の価値は、何が出来るとか社会的な地位とか学歴やお金を沢山持っている等で決まるものではありません。一般的にはそのように思われていますが違います。「生きている」というそのことに価値があるのです。そしてこの一般的な考えが一番の問題なのです。

 何もできず、社会的な地位もなく年老いている私の母に価値は無いと誰がいえますか。この台風のなか、そしてコロナの真最中に、権力闘争にふけっているつまらない政治屋に価値がありますか。私の母より立派で価値があるなどとは決して思いません。一般論で言うなら、みんなこんなあほな人達と同じ価値を共有することになります。

 音楽の話しをしましょう。音楽を聴いてみんな色々な感動や気持を抱きます。これはみんな違います。みんなが同じ気持ちではありません。とても個人的なものです。その会場に何人いようと、みんなちがいます。樋口さん演奏を聴いて、私と横に座っている母では違う気持を持ちます。演奏している樋口さん自身も違う気持をもつのです。それは深く音楽を理解しているとか、良く音楽を理解しているとかとは全く別のことです。キリストを信じることが、学問や知識や権威とは全く別の次元で在るのと同じなのです。音楽が知識や学問でないように。キリストも学問や知識ではありません。

 昔娘が6才の時に、ドイツのミュンヘンの歌劇場でオペラを見ました。全部ドイツ語で出し物は、クリスマスでヘンデルとグレーテルをやっていました。二時間から三時間あるオペラでした。上演中目をきらきらさせて夢中で聴いていました。終わって「分かったか」とたずねると、「ぜーんぶ分かったよ、おもしろかったよ」と答えました。私たち大人と違って素直に音楽と向き合って愉しんだのでしょう。「分かる」「理解する」とは何とむなしい事だろうとつくづく思いました。

 神についても、聖書についても同じことが言えるのではないでしょうか。一人一人がそれぞれに感じとり、考えると言うことが大切なのではないでしょうか。信仰とは、学問でも権威でも知識でもない、全く別の所にあるのではないでしょうか。光に生きるとは、そのような生き方だと思います。

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